ビリー・ジョエルの新しいファンを獲得せよ!音楽マーケティング最前線 1982年 10月3日 ビリー・ジョエルのアルバム「ナイロン・カーテン」が日本でリリースされた日

80年代に CBSソニーで洋楽の仕事をしていた自分にとって、初めてのビリーのアルバムが『ナイロン・カーテン』でした(日本発売は1982年10月3日)。

70年代後半、前任者の小野さん時代に『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』の2発連続で100万枚超えのウルトラセールスを記録(当時の洋楽の記録だと思います)。80年の『グラス・ハウス』にしても80万枚。当代きってのスーパースターでした。この後の『ソングズ・イン・ジ・アティック』というライブ盤までを小野さんが担当していました。

そして、私の『ナイロン・カーテン』です。ご存知の様に、この新譜は今までとはガラリと作風が変りました。社会的メッセージ性も強く、硬派で骨太なロックアルバムです。

この当時アメリカは、ベトナム戦争の敗北で建国以来初めて挫折を食らい失業者も増大、国を支えてきた鉄鋼産業も衰退していきました。そしてビリーはと言うと、レコード制作直前にオートバイ事故で入院。ピアニストが親指を損傷し、カミさんとも離婚寸前―― そりゃ、入院中色々と人生考えます。グラミー賞はいくつも獲ってるし、名誉も金もタップリある。彼の目線は初めて高くなりました。

「いっちょう、アメリカをテーマに作ってみよう」ってなったのでしょうね。このあたりの変化はスプリングスティーンを『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』へ向かわせたものと近いものを感じます。

それまでのビリーの目線は都市生活者としてのものです。身の回りの出来事を題材にしています。しかも、日本では、いわゆる「素顔のままで(Just the Way You Are)」や「オネスティ」に代表されるピアノ・オリエンテッドなラブソングが彼の人気を支えていました。

実は、お気づきのように? ビリーは超へそまがり野郎なので、人が期待すると絶対に裏切りたくなるタイプです。同じものは作りたくないというヤンキーです。アルバム『グラス・ハウス』冒頭のガラスを割る音、あれも今までの自分をぶち壊した、という意思表示なのです。

さて、このアルバムを如何に料理して、日本のユーザーに理解してもらうのか。そのマーケティング戦略をつくるのがディレクターとしての私の仕事です。つまり、えらく簡単に言うと、“誰にどう売る?” という設計図づくりです。

私は、アーティストの代理人みたいなものですから、彼の事、彼の音楽を日本人の中で一番理解していないと務まりません。まずは作品を解読する事から始めます。アルバムの歌詞を何度も読み、時には丸飲み込みしてビリーの気持ちに入り込みます。

■ ナイロン・カーテンの意味は?
■ ジャケットで夕陽を背に並んでいる分譲住宅は何を表しているのだろうか?
■ そこに住む人はどんな人?
■ アメリカの労働者平均所得はどうなってるの?
■ ベトナム帰還兵のその後は?
■ 失業率はどうなった?
■ 倒産している会社は?
■ 斜陽産業は?

それ以外にも、ナイロンのカーテンって病院とかお風呂だよなとか、低所得者の家庭のカーテンはどうなんだろうとか、ビリーはカーテンの向こうに何を見たのだろうか… など、徹底的に妄想と勉強を重ねます。

マーケティング戦略とは、「時代の流れの中で、アーティストの音楽をどう表現するのか」になります。

さらにビリー・ジョエルを理解するために、彼のある曲に戻りました。ビリーも自分自身のテーマ曲だと言っていた「マイ・ライフ」。この歌詞を、徹底的に深く掘り下げてみました。78年に発表された『ニューヨーク52番街』収録のヒット曲です。これでアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを知りました。ベトナムの敗戦で、いま、これが崩壊しつつあったのです。

他の洋楽ディレクターたちの仕事の仕方は分かりませんが、私はこういうやり方で、ビリー・ジョエルになりきっていきます。そして当時のアメリカの社会的な問題を学び、『ナイロン・カーテン』という作品を理解していくのです。

当時、情報が少ない洋楽の仕事は全て思い込みと妄想と仮説でしかありません。インタビューを受けたら、ビリーならきっとこう答えるだろうという仮想問答には自信がありました。

この時のアルバム資料を見ると、ビリー曰く「このアルバムは自分にとってのサージェント・ぺパーズだよ」と。ビートルズがこの作品を発表して、さらに高いところに上がったように、ビリーもまたこの作品によって “最も人気のあるシンガーソング&ライター” から、“時代のヒーロー、現代アメリカを代表する文化人” に仲間入りした、ということかも知れません。

商品の帯には、恥ずかしながらこういう気合のコピーを書きました。

やったぜ感動! 時代のヒーローが時代の傑作をつくった。
アメリカンウェイを走り続けるビリーが投じた衝撃の一擲は世界を揺るがす。

今までビリーを支持してくれたユーザーは買ってくれなくてもいい。ピアノのラブソングでなきゃダメって言ってる人とは、訣別していい。この作品で初めてビリーを好きになってくれるファンをつくりたい。新しいユーザーを30 万人獲得できれば、また向こう5年間はビリーでビジネスできると信じてやってました。

マーケティング戦略の具体的なカタチは “ユーザーの輸血をする” そう、ユーザーの入れ替えです。

これで初めてビリーを買ってくれた人に、さらに彼の事を知り、もっと好きになってもらいたい。そして、遡って『ストレンジャー』や『ニューヨーク52番街』も購入してくれれば最高だと… そういう意味を込めてビリー読本と呼べるブックレットを LP のオマケにしたのです。内容は “ビリーの A TO Z”。前任者の小野さんにも協力してもらいつつ、ビリーの入門書は16ページ仕様になりました。

ブックレットは初回限定30万枚に封入しています。さすが太っ腹の CBSソニー。ビリーだから可能な事でしたが、そろそろ輸入盤が盛んになり始める時で、国内盤の価値を高めてアピールしたいという意味もありました。ちなみにこの時代、タワーレコードは輸入盤屋としてレコード会社洋楽部門の敵でした。

さあ、新しいユーザーを取り込むために、特に若いロックファンを意識して動きます。具体的には、それまでビリーでは決して重要視して来なかった音楽専門誌を優先させました―― 先にも述べましたが、「ロックアルバムとしてコアな音楽ファンの中で、アーティストと作品が正当に評価され、新しいファンに認めてもらいたかった」というのが一番の狙いです。

それまで既に100万枚売れていたわけですから、音楽誌の部数を遥かに超えてます。話題型として『an・an』『non-no』などの大型女性誌、男性誌なら『平凡パンチ』や『週刊プレイボーイ』。新聞や TV の露出にも十分に堪え得る知名度でしたし、当然そこは稼働させていますが、むしろ今まで付き合ってこなかった音楽専門誌でコアマーケットに訴求したわけです。

それまでのビリーは、『rockin'on』を必要としてなかったし取り上げられることもなかったわけですが、嬉しい言葉を渋谷陽一さんからもらいました。この『ナイロン・カーテン』については、「いやぁ、いいロックアルバムだね。見直したよ」って。もちろんビリー初ですよ。この雑誌に登場したのは。これが一番の想い出です。

ファーストシングルは「プレッシャー」。この曲、IPS細胞でノーベル賞もらった山中教授が大好きな曲なんですってね。ジョギング中にいつも聴いてるっていうコメントありました。世に出す時に係わったスタッフとしては凄く嬉しい情報です。ノーベル賞を生んだ曲だと言っちゃってもいいですよね。

セールス的には、その発売期だけで50万枚近く行きました。さすがビリーです。ま、売り上げ予算的には元から過剰な期待で数字を計上しているのでギリギリでしたが、私にしてみれば120点でした。間違いなく新しいユーザーが増えたはずです。

輸血は大成功。 ビリーにしても、このメッセージ性溢れるヘヴィな作品を出したからこそ、次のアルバム『イノセント・マン』では、またお気楽な POPS に徹する事ができたはずです。

※2018年5月19日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 喜久野俊和

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