麥田俊一の偏愛的モード私観 第9話「ジュヴェナイル ホール ロールコール」

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左右ともに2019ー20年秋冬コレクション PHOTO:Riki Yamada

 ペンネームの話。乱読だった高校時代の意中の小説家、福永武彦について少々。純文学、評論、随筆、詩篇はもとより(水彩画の画集もある)、福永は、加太伶太郎名義で探偵小説を、船田学名義でSF小説(こちらは未完のままだが)を書いている。この二つの筆名がアナグラム。即ち、加田伶太郎の「ダレダロウカ」の問いに、船田学の「フクナガダ」が応ずると云う仕掛け。今の眼で、こう云う命名感覚を見ると、やはりそこからは少しく古めかしさを感じる。古めかしさついでなら、相良武雄などもある。単純にルビを振ればサガラタケオだが、相をアイと読み、良をラと云った按配に「アイラブユー」と読ませるのだ。昭和初期に流行った筆名だそうだが、何処か人を喰った感じを出してやろうと云うところと同時に、筆名を使う本人の自嘲も感じられて可笑しい。蛇足だが、名取蘭三(ナットランゾウ)とか、矢野八朗(ヤナヤロウ)とかも盛んだったようだ。これまた憎めない。根が自嘲とか自虐ネタに溺れる拗けた質だから、こうした駄洒落にもうっかり乗せられてしまうのだから始末に負えない。

 痩せても枯れてもアラ還迎えても、売文業の端くれ。ファッションを書く、の意味を自分なりにきちんと用意しなければ、一分が立たぬ。「どうせお前の書くモノなぞは」と、心ない台辞を口にする先輩諸氏もいるけれど、こちとら文筆の徒。ファッションをエンターテインメントとして書く書き手を目指す修業の身。追従なし、嘘八百なしのと威勢はいいが、尾羽打ち枯らしたしがない身一つ。折につけ、マルガリータみたくソルティー(辛辣)にもなれる、と自惚れてもいる呆気者。

 此度は「ジュヴェナイル ホール ロールコール」のデザイナー、入江 泰を紹介する。アマン・ド・クール(意中の人)の一人だ。「ジュヴェナイルホール」は「少年鑑別所」、「ロールコール」は「点呼」の意。以前より気になっていたのだが、本人に初めて対面したのは数ヶ月前。作る服を見るならば、作り手は随分若いのではと勝手に思っていたら、果たして、本人は私の同世代。これには魂消た。同時にホッとした。今回(2019~20年秋冬)の主題「リトル・クリーチャーズ」(米国のロックバンド、トーキング・ヘッズが1985年にリリースしたアルバムタイトルより引用)とか、前回の着想の一つ「死亡遊戯」(1978年公開の香港映画『ブルース・リー 死亡遊戯』より引用)とかの、私の世代には妙に共感出来るネタ揃えに、若いのに面白い着眼だなと興味半分。片や、若い奴らの懐古趣味をやんわり揶揄する上目線のツッコミと、所謂、あの頃はさぁ〜式の蘊蓄三昧で青臭い輩をギャフンと云わせてみたい、そんな底意地悪い心組みが半分。いざや対面となったところが、前述の如し。アラ還迎えた野郎が二人、大の大人が雁首揃えて自虐ネタで盛り上がる想定外の図。これはこれ、面白かった。

「準備に入るも、外出と云えば、せいぜい近所のコンビニ、YouTubeやAmazonプライムばっかり見ている自堕落な日々の繰り返し。そんな折、今回の怪物のキャラクター、リトル・クリーチャー(自分自身)が突如として生まれた」と入江。「同業の若い世代が周囲にいるので刺戟になるけれど、仮にトーキング・ヘッズであれば、彼等のリサーチに引っ掛かってくるのは、多分、もう少し初期の青筋立てたパンクっぽいところに何かを重ねた筈。でも、僕みたくロートル(1965年生まれ)になると、この辺りのアーシーな雰囲気(前出のアルバムを指す)にグッと惹かれてしまう」とも。

ストリート調の当世風に見える服には、自虐性と生っぽさに、ポップな感覚が交錯した不思議な魅力が沁み渡っている。「自室に籠りっ放しが創作の起点だから、身の周りの品々、たとえば、机の上にある筆記具とか、ノートステッカーとか、壁に貼ってあるポスターやタペストリーとか、着ている古着のTシャツとか…そんなモノをコラージュする感覚で制作してみた。出掛けないから他人の眼を気にする必要もないので、コーデュロイとかベルベットのような、敢えて野暮ったい服地を使い、色柄もそれに重なるイメージ。スポーツとかアスレジャー的なモノとは真逆の、部屋着としてのジャージーや、メルカリを見て勢いで買ってしまった変なワイシャツとか、近所の外国人がベランダに吊るしたままにしている、年季の入った革ジャンなど、自堕落な生活に纏わる品々で構成している」とは、入江の、まさに堂に入った野暮自慢。自らの自堕落な日々より今回の着想が生まれたと云っておきながら、「気分は西海岸」などと嘯くあたり、恰も学然和尚(小林信彦著『唐獅子源氏物語』に登場するアナーキーな怪僧)の如し。自堕落を絵に描いたような、布団や褞袍、半纏や炬燵カバーのような服は、趣味の悪い臓器や髑髏とか、波ウエーブや夕日のグラフィックで彩られている。因みに、自分の臓器を見たことがあるそうだ。

 さても、ウィメンズに見える服、実はメンズなのだ。但し、巷間に流行るユニセックスを謳うのではないらしい。その辺の気っ風もいい。「曲がり形にもメンズのつもり。開始当初はサイズ展開もしていたけれど、今はワンサイズが基本。他人向けに作らなくてもいいのではと思い始めたのが切っ掛けで、自分の身体に合うサイズだけを基準としている。勿論、着てみたいと思う女性が着ることには吝かではない。(ルック撮影で)女性モデルに着せているのは、僕が女好きなのもあるけれど、そもそも自分のために作っている服だから、男性モデルだと容易に想像出来て面白くない。モデルが女の子だとヘアメークだけでイメージがグッと広がるしね。正直、男にダサいと云われても気にならないけれど、女の子に云われたら結構気にしてオチるタイプ。自分でも分かっているから、本気で女の子の服は作らないのかも。自分が着たい服だから毎回、せいぜい20型くらいの規模。普通は、一人で1シーズンにコート3着も買わない。なのに、ジャケットだけでも半端ない型数が揃うのが一般的な展示会なのだろうけれど、僕の場合は、今着たいコートはこれ、ジャケットはこれ、と云った少数精鋭の勝負。単純明快だけれど、そこには自分なりの提言がある。無尽蔵に排出され氾濫する服。膨大な余剰は、サンプルセールでも捌き切れない。この無駄な循環が、僕は大嫌い。だから自分が着る服しか作らない。作ったものは自分で着る。誰にも着てもらえなくても、結局は自分が着て辻褄が合うから無駄にはならない。サイズ展開も然り、端より自分が着ないサイズなど必要ないから」と、何処迄も入江節。

 プッツン(些か古い表現だけれど)と云うよりは、何処か間が抜けたようにも聞こえるけれど、金太郎飴式の服が蔓延する今の東京にあっては、本人が意図しているかは扨措くとしても、一種のアナーキーなステイトメントであることは確かだ。一見、彼の言動は、所謂「時代離れ」や「浮世離れ」に映じようとも、実は、それとは随分違う立ち位置で「時代」の傍観者であり、観察者的な構えでいる。自虐的な言動こそ隠れ蓑、ひょっとして、生来の批判家精神と云ったものを、やむなく備えてしまった人なのかも知れない。こうした覚悟のある作り手をこれからも紹介して行きたい。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)