SION「新宿の片隅で」どんなに好景気でも、その陰には弱者がいる 1985年 9月1日 SION の自主制作アルバム「新宿の片隅で」がリリースされた日

1980年代に一世を風靡した音楽というと、歌詞やメロディーだけでなく、サウンド的にもメジャーな感覚の楽曲が主流になっていったという印象がある。

そんななかで、時折、フォークやロックの原石を思わせるような素朴さと荒々しさをもったアーティストが、時代をのトレンドを無視したように登場してくると、その鮮烈な魅力に思わず目を奪われることがあった。

1985年のことだった。シンガーソングライターでもあり、海外アーティストの招聘など多彩な活動を行っていた麻田浩氏から、いま彼がプッシュしているという新人アーティストのレコードをもらった。

それが SION の自主製作アルバム『新宿の片隅で』だった。暗くて地味なジャケットのアナログレコードには、「街は今日も雨さ」「俺の声」「クロージング・タイム」「ノック・オン・ザ・ハート」の4曲が収められていた。

正直に言えば、それほど期待して聴いたわけではなかった。しかし、ほぼ弾き語りという感じの、きわめてシンプルな演奏と、ハスキーだけれど喉から声を必死に絞り出すような歌の迫力に、一気に最後まで聴いてしまった。

麻田氏からは、彼が子供の頃に侵された難病のために右手の握力が弱く、長時間ギターを弾くことができないのだということを聞いた。それでも、彼がシンガーソングライターとしての並々ならぬ才能、そして情熱を持っていることも。「だからこそ、なんとか SION を世に出してやりたいのだ」という麻田氏が熱く語った言葉を思い浮かべながら、「いや、これはホンモノだよね」と、独り言をつぶやいていた。

ただその時は、SION がヒット曲を次々と世に送り出すスターアーティストとして脚光を浴びるようになるとは思わなかった。しかし、その歌には、この時代の音楽が忘れてきたような迫力と、なにかを伝えたいと言う熱量があった。それは、1960~70年代のはじめに、メジャーシーンのカレッジフォークなどとは一線を画して、アンダーグラウンドシーンを中心に活動していたフォークシンガーに通じる迫力、切迫感だった。

メジャーシーンに浮上し、ニューミュージックというカテゴリーにくくられていった70年代以降のフォークからは希薄になっていった、抜き差しならない想いや怒りが SION の歌から伝わってきた。

それは、悪く言えば “時代遅れ” にも見えたかもしれない。しかし、彼の歌にあったのは、時代の流れに左右されてはならないシンガーソングライターとしての原点だった。こうしたスピリットにあふれたシンガーソングライターが、日本がバブル景気に浮かれ立とうとしている時期に登場してきたというのも象徴的だったと思う。

どんなに好景気でも、その陰には弱者がいる。世の中は、そうした人々に犠牲を強いながら繁栄している、といってもいい。80年代のバブル期の始まりに、SION が、そうした弱者の声、怒りを歌にしていたということには、やはり意味があるのだという気がする。

SIONは、翌86年にアルバム『SION』でメジャーデビュー。それ以降、コンスタントに作品を発表して、彼なりの足跡をくっきりとミュージックシーンに残していく。そのなかには、泉谷しげるの名曲のカバー「春夏秋冬」や、CM曲ともなった「ありがてぇ」などの話題曲もあった。

それでも、『新宿の片隅で』というアルバムは特別な輝きを放つ作品だったと思う。収められていた「街は今日も雨さ」「俺の声」などの4曲は、その後も彼の代表曲として、色あせることなく時代を超えて愛されていった。その意味でも、まさに、SION の原液ともいうべき濃密なアルバムであり、時代に打ち込まれた小さいけれど鋭い楔でもあった。

SION はやはりヒットメーカーにはならなかった。しかし、彼のメッセージをしっかりと受け取った人たちも少なからずいた。福山雅治もその一人だった。彼は、自分に強い影響を与えたアーティストとして、ルースターズとともに SION の名を挙げている。それだけでなく、彼の「SORRY BABY」などをカバーしたり、実際に共演したりもしている。さらに、福山雅治を通じて SION を知り、ファンになったという若い世代も少なからず生まれていった。

今でも、例えば偶然ネットで SION の歌に触れて、その魅力のとりこになってしまう人も生まれているようだ。けっして大ヒットはしなくても、その歌を聴けば、どこかに心を震わせる人が必ずいる。次代を越えて生き続ける、その純粋な歌の生命力こそが、SION の最大の武器なのだと思う。

カタリベ: 前田祥丈

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