【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.196

▲大阪医学校仮病院跡(大阪市)

(10月2日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

花開く

 1869(明治2)年2月、大阪では大福寺に、オランダ人医師・ボードウィンを教頭として招き、大阪医学校仮病院(大福寺伝習所)が開かれた。この時、病院開設に尽力したのが、27歳の緒方惟準である。

 惟準は、益次郎の適塾時代の恩師・緒方洪庵の次男である。20年ほど前、益次郎はそこで塾頭をしていた際、当時7歳であった彼を肩に背負いよく遊んだという。

 また、この医学校でボードウィンが行う講義を通訳する通訳官の役割を果たしたのが、31歳の三瀬諸淵であった。

 彼は、益次郎が宇和島時代に世話になった医師・二宮敬作の甥で、益次郎から蘭学を学んだことがあった。その時、一緒に学んでいたのがシーボルトの娘・楠本イネである。諸淵は、イネの娘であるタカを妻としていた。

 現在残されている大阪医学校仮病院集合写真には中央にボードウィン、その左側には諸淵、ボードウィンの前には惟準の姿を見ることができる。また、彼らの他にも多くの伝習生たちの姿が収められている。

 このように、益次郎に縁のあるふたりは、着実に成長していったのである。

(続く。次回は10月16日付に掲載します)

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