秀吉「備前国で乱暴するな」 宇喜多氏配慮の掟書 倉敷の寺入手

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羽柴秀吉が秀長に送った、宇喜多氏領内での問題行動を禁じた掟書

 羽柴(豊臣)秀吉が1582(天正10)年の中国攻めに際し、自軍の主力で異父弟とされる秀長に送った掟書(おきてがき)が、岡山県内で新たに見つかった。味方となった備前の戦国大名・宇喜多氏の領内を進むに当たり、乱暴狼藉(ろうぜき)をしないなど兵に対する注意事項を記載。研究者は「軍団長となった秀吉の戦に臨む基本姿勢や、宇喜多氏への配慮が分かる貴重な一次史料」としている。

 掟書(縦27.5センチ、横39センチ)は秀吉が毛利氏との決戦へ、姫路城から2万人の本隊を率いて備前入りする前後の3月26日付。箇条書きで、陣の設営時や移動中に問題行動を起こさない▽味方(宇喜多氏)の領内で(安値で買いたたく)押し買い、放火などをした場合は成敗する▽ぬか、薪などの生活必需品を家主に断りなく使わない―の3点を指示している。秀吉の主君、織田信長には戦時のこうした掟書は確認されていない。

 郷土資料の保護活動をする倉敷市の寺が県内で入手し、戦国期に詳しい岡山県教委文化財課の内池英樹副参事、愛媛県歴史文化博物館の山内治朋学芸員らが調査。花押や字体、文章の書きぶりなど、現存する複数の秀吉の文書と総合的に見比べ、本物と判断した。

 秀吉は同時期、備前・浦伊部村の住民の求めに応じて、兵の村内への立ち入りを禁じた禁制札も授けている。住民には禁制札、自軍には掟書を出し、兵の規律を徹底しようとした姿が浮かび上がる。

 また宇喜多氏は当主の直家が死去し、幼い秀家が家督を継いだばかり。秀家は後に秀吉の庇護(ひご)下で成長し、若くして豊臣政権の五大老に就く。内池副参事は「秀吉が早い段階から秀家を重要視し、その領国を保護していたことが改めてうかがえる」とする。

 今回確認された掟書は、愛媛県歴史文化博物館(同県西予市)で11月24日まで開催中の特別展「瀬戸内ヒストリア」で初公開されている。