女子高生が原子力の町で動画に出て伝えたかったこと  米留学先で「きのこ雲、誇れますか」

きのこ雲のロゴの前で友人と写真に納まる古賀野々華さん

 福岡県大牟田市の高校3年古賀野々華(こが・ののか)さん(18)は、核産業が経済発展を支えた米西部ワシントン州リッチランドの高校に留学した。そこで、この学校の生徒らが愛着を持つ原爆のきのこ雲のロゴマークに異を唱える動画を発信した。「罪のない人たちを殺すことに誇りを持ってもいいのですか」―。18歳の日本の少女は、原爆を「誇り」とする町で、なぜ勇気を振り絞り、批判の声を上げることができたのか。

 ▽「原子力の町」で受けたショック

 リッチランドでは1940年代、長崎に投下された原爆の原料プルトニウムが生産され、町の発展をけん引した。「原子力の町」と呼ばれ、きのこ雲は町のシンボル的な存在となっている。2018年8月に初めてこの町を訪れた古賀さんはこの事実を知らなかった。生徒たちが愛用するきのこ雲のロゴ入りのパーカを、自分も何の疑問も抱かずに着ていた。

 留学中のある日、教師から思いがけない言葉をかけられた。「そのきのこ雲はどうしてそんな形をしているか分かる? 雲の中には亡くなった人たちがいるんだよ」。

 キノコ雲のモチーフは、原爆の爆発によってできる雲だったと知る。小学校の修学旅行で長崎原爆資料館には行ったことがあった。そのときに見た壮絶な被害を思い出した。ショックだった。無知が恥ずかしくて、悔し涙が流れた。

 ▽日本人の思いも知って!

 米国史の授業や核施設の博物館で原爆に対する住民の誇りを学ぶうち、日本人である自分の意見を留学先の生徒たちに知ってもらいたいと思うようになった。相談した教師やホストマザーにも背中を押された。そして帰国を控えた19年5月30日、校内向けの動画に出演した。

 「自分にとってきのこ雲は犠牲になった人と今の平和を心に刻むものです」。原爆が落とされた長崎から近い福岡の出身だと自己紹介し、日本には原爆の恐怖を学んで犠牲者を悼む「平和の日」があると伝えた。ロゴを変えてほしいわけではないとした上で、「雲の下にいたのは兵士ではなく、市民でした。きのこ雲は破壊したもので作られていて、誇りに思うことはできません」と正直な心境を訴えた。

 「よかったよ」「感動した」。同級生は好意的だった。ある女子生徒は「動画がなければ、日本側の意見を知る機会は一生なかった」と言ってくれた。教師は「あなたを誇りに思う」とたたえた後、校内には「そんなことでロゴは変わらない」と反発する意見もあったと教えてくれた。

地元紙を見せる古賀野々華さん

 古賀さんの行動は地元紙でも報じられ、ツイッターでは「ロゴを変える時が来た」などの意見も上がった。一方で、原爆が終戦をもたらしたとの肯定論もあった。

 6月に帰国した古賀さんは反響の大きさに驚きながらも「日本人の思いを考えるきっかけになればいい」と語った。挑戦を振り返り、「違う意見も尊重する風土があったからできた。応援してくれた先生たちのおかげ」と感謝を口にした。

 https://www.youtube.com/watch?v=mpY8q1XH3QI

▽価値観の違いが与えてくれる刺激

 古賀さんは留学中、ほかのことにも衝撃を受けていた。ある日、ホストマザーから自分は養子だと打ち明けられた。ところが近所の人たちも知っていて、あっけらかんとしていた。近所にも養子を取った家庭は多いようだった。養子と聞いた時「あまり深く聞いちゃいけないかな」と遠慮した自分の価値観とはかけ離れた光景は深く心に刻まれた。

 「日本でもこんなふうに養子文化が広がればいいのに」。大学に進学後は養子縁組や里親制度について学ぶつもりだ。

 ▽取材を終えて

 古賀さんには大学受験の勉強で忙しい中、時間を作ってもらった。動画の中の大人びた雰囲気とは違う、高校の制服姿にポニーテール。「留学中は化粧して通学するのが普通だったのに」と恥ずかしそうに笑っていた。

 取材中、私は大学時代の韓国留学を思い出していた。現地の学生とおしゃれなカフェでするたわいないおしゃべりは楽しかった。が、たまに慰安婦や竹島の問題が話題になった。そういう時はひたすら相手の話を聞くことに徹した。理解しようとしていたと言えば聞こえはいいが、親切な友人が嫌な気持ちになるかもしれない意見を発することはとても難しく、できなかった。だからなおさら古賀さんの挑戦はまぶしかった。刺激を糧に着々と前進していく彼女がどんな道を進むのか。また話を聞いてみたい。(共同通信=大倉たから28歳)

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