ノーベル化学賞受賞 吉野彰先生 イノベーションの軌跡 〜未来からの 信号を捉えよう〜

2019年10月9日、旭化成名誉フェローの吉野 彰先生のノーベル化学賞の受賞が決定しました。

吉野先生の生み出されたリチウムイオン二次電池※は、スマートフォンややパソコンをはじめ、今や私たちの生活になくてはならないものになっています。あのハヤブサの帰還も、影の立役者はリチウムイオン二次電池です。

日本発のこの大発明の生みの親である吉野彰先生に、大学ジャーナル本誌では、2011年10月に、「自らの手でイノベーションを起こした、その経緯と未来展望、発明・発見のために欠かせないもの」をお話しいただきました。
その内容を公開します。

※定義:炭素材料を負極に用いリチウム含有金属酸化物(LiCoO2)を正極に用いた非水電界液系二次電池(図1)

それは突然やってくる

これまでの人生を振り返って、少し大袈裟な言い方ですが、身の回りのものである日忽然と消えたものはなかったでしょうか。みなさんの世代なら、それは電球かもしれません。そしてこんなことを言うと自動車メーカーの方から怒られるかもしれませんが、近い将来、同じような運命を辿るのはガソリン車かもしれません。

エジソンの発明によって、近代工業化社会は幕を開けたといわれますが、この二つはそのころから使われていたものとして象徴的なものです※1。他にも似たようなものはあって、そのうち最近になって消えたものにレコード(蓄音機)、フィルム写真(銀鉛写真)、そして手前味噌になりますがニッカド電池※2があります。

なくなる時は突然やってきます。たとえばフィルム写真。ある大手フィルムメーカーの人たちがこんなことを言っていました。デジカメが出てもフィルムカメラが急に売れなくなったわけではない。そして、フィルムカメラには価格や画像の美しさなど、優れた点もたくさんあるから永遠になくなることはないと思っていた。

しかし写メールが出た途端、売り上げは年に何割というペースで急激に落ち込んでいった、と。今は多くの人が、ガソリン車がすぐになく
なるとは思っていないかもしれません。しかしそう遠くない日に、ガソリンエンジンが突然消える日が来ないとも限らないのです。

※1:ガソリンエンジンは、エジソンと同時代にドイツ人のダイムラーとベンツが発明した。

※2:ニッケル・カドミウム蓄電池:水系二次電池

2025年には何かが起こる?

下のグラフ(図2)を見てください。携帯やパソコンなどのIT機器の販売の伸びと、リチウムイオン電池の普及の伸びを重ねあわせたものです。1995年、ウィンドウズ95の発表をきっかけに始まったIT革命。それを支えたのがリチウムイオン二次電池でした。

戦後の科学・技術の大きな変革は、まず東京オリンピックが開催された1964年頃に起こりました。工業化学による素材革命です。次がこの30年後のIT革命で、みなさんの生活の、ある意味でベースになるものがこの時から形成されてきました。

歴史が繰り返すなら、次に大きな変革が起こるのは30年後の2025年頃です。ちょうどみなさんが社会の第一線で活躍している頃です。そこからの信号は、今はまだとてもかすかなものかもしれませんが、それをいつ頃どうキャッチするかが、これからみなさんに与えられた大きな課題ではないでしょうか。

大きな変革は30年に一度にしても、その予兆は15年前ぐらいから少しずつ現れます。リチウムイオン電池の場合、理論的な背景を辿れば1964年の福井謙一先生(1918年〜1998年) の『フロンティア軌道理論』に行きつきます※3。その福井先生がノーベル賞を受賞されたのが1981年。そしてその少し前の1977年には、やはりノーベル賞を受賞された白川英樹先生(1936〜)が、リチウムイオン電池の正極材料に大きなヒントを与えたポリアセチレンという材料を発見されました。また最終的に正極材料に使われることになった、リチウムイオン含有金属酸化物LiCoO2、( リチウムコバルトース)をジョン・グッドイナフ(J.B.Goodenough) が発見したのが1980年、いづれも1995年に先立つ15年ほど前です。

私は当時、ビデオカメラを開発中のある家電メーカーの方にこう言われたことがあります。「ビデオカメラの顔や頭脳に当たる部分(LCDやLSI)の開発は進んでいるが、心臓部に当たる二次電池の開発が遅れていますね」と。その時、こんな会話もしていました。「エジソンの時代から使われていた電球、レコード、ニッカド電池は近々すべて変わるだろう」と。リチウムイオン二次電池の基礎研究が完成したのは1985年、事業化が始まったのは1992年でした。

※3:乾電池の原型となるものは1800年頃にあって、その後1900年には、水系の二次電池の原型ができた。非水系の一次電池が出たのが1970年頃で、非水素の二次電池はなかなかできなかった。そんな時に脚光を浴びたのが、化学と電子工学の融合分野を拓いた『フロンティア軌道理論』だった。

1995年と今は酷似

私のこれまでの経験からすると、今は1995年からほぼ15年後で、次の大きな変革への信号が強くなり始めるころです。今年がいろいろな意味で1995年によく似ているのも象徴的です。

1995年に起きたのはIT革命で、それに通信革命が続いたわけですが、次に来るのは、多くの人も考えているように、資源・エネルギーに関連する革命
だと思います。もちろんこれには国の政策も関係します。1995年は、電電公社の民営化がそのきっかけを作ったのです。

資源、エネルギー関連の革命では、二次電池は再び影の主役を演じならなければなりません。そのためには、リチウムに変わる新たな材料の開発や、電極・電池の構造の改良も必要でしょう。

加えて重要なのは、電池の外側、周辺技術の革新です。なかでもとりわけ重要なのが充電です。もう一度、少し昔のことを思い出してみましょう。電話機にはかつて、電源を得るためと回線に接続するための二本のコードがありました。それが受話器に電池を内蔵することでコードレス電話になり、今は回線を電波で受けるワイヤレスになりました。これが携帯電話、つまりコードレスであり、ワイヤレスな電話です。

同じことは電気でも可能です。電波を使って電池を充電することをワイヤレス給電といい、実用化もすでに始まっています。時速500㎞で宙に浮いて走るリニアモーターカー。JR東海の新型には一切電池が積んでありません。電気はすべて軌道から送られてくる電波をキャッチして賄います。

未来の車が高速道路上を、道路に敷設された発信機から電波を受けながら走行している姿を想像して下さい。バッテリーにも十分電池が蓄えられますから、インターチェンジを出た後はそれを使って走ります。もしかしたらもっと先の未来には、私たちが開発した二次電池さえもいらなくなってしまうかもしれません。そういう時代を作っていくのはみなさんたちなのです。

歴史から学び、自分の情報を持て

イノベーションを起こすのにまず欠かせないのは、当たり前のことですが、自分の得意とする知識・技術を身につけておくことです。私は大学で化学を学び、それを生かして企業の研究室に就職しました。主に取り組んでいたのは炭素系の材料研究です。偶然や運、ノーベル賞を取られた方がよく言われるセレンディピティ※4も必要です。

私はそれまで負極に使われていたLiCoO2を正極に、そして負極に炭素素材を使うことで成功しましたが、この時の素材は、たまたま別の研究室が開発したばかりのものだったのです。もし私が化学メーカーで研究していなかったら、そしてあの時、別の研究室であの素材が開発されていなかったら、きっと今頃はもう少し違った設計の二次電池が、世界中で使われていたかもしれません。

イノベーションを起こすのにもう一つ欠かせないのが、未来からの信号をキャッチすることです。未来の社会はどんな姿をしているのか。あるいはどんな社会であったらいいのか。未来とコミュニケーションを図ることと言ってもいいかもしれません。そのためには過去のこと、歴史についてもよく知っておく必要があります。私は大学へ入って1、2年の間、何か専門以外のことを身につけようと、考古学研究会に入り遺跡や廃寺の調査、発掘に没頭しました。考古学や歴史は、歴史は繰り返すということを教えてくれます。人は案外、5、6年前のことでも思い出せないものです。あらためて、過去の出来事を振り返ってみることからも、未来とのコミュニケーションは始められるのです。

現代は情報が溢れている社会です。それらを鵜呑みにしていては、ただ流されるだけで、新しいこと、人が考えないようなことを考えたり、生み出したりすることはできません。過去を振り返り、それを今の出来事と照らし合わせて自分なりの《情報》を作ることが、今は特に大事です。

自分で作ったアンテナでなければ、未来からのかすかな信号を捉えることなどとてもできないのです。

※4:何かをうまく見つけ出す才能、能力から、あるものを探している過程で、たまたまそれよりも役に立つものを見つけることに譬えられる。

旭化成名誉フェロー 工学博士

吉野 彰先生

1948年大阪府生まれ。70年京都大学工学部石油化学科卒業。72年同大学大学院工学研究科修士課程修了後、旭化成工業株式会社(現:旭化成株式会社)入社。イオン二次電池事業推進室長、電池材料開発室長などを経て、2003年10月より旭化成フェロー。化学技術賞((社)日本化学会)、紫綬褒章など受賞多数。大阪府立北野高等学校出身。

※大学ジャーナル vol.96 2011年10月25日号より抜粋

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