「市川房枝の志を自分の志とする」と心に決めた山口美代子さんだが、市川の没後に残された膨大な資料群を初めて目にしたときは驚いた。
見てほしい資料があると言われて東京・代々木の婦選会館に行ったら「お風呂屋さんの脱衣かごのようなもの」がうずたかく積みあげられていた。それぞれにごく簡単な説明が書かれた荷札がついている。かごの中には、新聞紙に包まれたものが、ほこりにまみれて入っていた。これを整理するのは、体力勝負だと思ったという。
■ボロボロと崩れる紙資料
本格的な作業開始は、国会図書館退職後の1995年から。週に3回、婦選会館の市川房枝記念会に通い、のちに協働者が加わるが、最初は1人で資料の山に向き合った。触っただけでボロボロと崩れてしまうような紙の資料もある。1枚ずつ注意深く広げる。いつのどんな書類か調べ、手書きでカードに記録する。
ガリ版刷りのチラシや著名人の書簡といった運動の思想につながる資料もあれば、活動費捻出のためのバザーの会計簿、原稿やメモ類を含む私文書もある。
婦人参政権運動の関係だけでなく、広範囲の社会問題に関わる資料が含まれていた。例えば、同時代の女性団体の記録、紡績工場の視察記録、母子心中防止対策の請願といったものまで。
これらを市民運動、消費者運動、戦時下での国策協力、社会労働問題、海外の女性団体との交流といった内容別に分ける。実物を中性紙の封筒に移して保存する一方、全てをマイクロフィルムに記録していった。
10年の歳月を費やした。1918年から46年まで28万点の資料の中から8万点をマイクロフィルム化して、公開したのは2005年。「婦人参政関係史資料 内容細目一覧Ⅰ」全53リールが市川記念会から発行された。細目はパソコンで検索できるようにした。
■よみがえる政治参加の運動
こうして、女性の政治参加の権利を求める運動がよみがえった。それは当時の社会情勢をも映す。女性問題の研究者はもちろん、歴史研究者からも昭和史資料の宝庫だと喜ばれた。
これは一区切りに過ぎなかった。残りの47年以降の資料に加えて、あとから出てくる資料も多くあった。現在も「山口組」を中心にして整理、検証、目録データ作りが続いている。山口さんは「わたしが生きている間には終わらないだろう」と言いつつ、最近まで週1回は現場に顔を出し、進行を見届けて逝った。
2005年からこのデータを活用して、市川の全体像を解明するための「市川房枝研究会」が発足。女性史研究家の伊藤康子さんと山口さんを中心にして調査、研究にあたった。
その成果として、おととし『市川房枝の言説と活動』全3巻が完成した。市川の生誕から死去までのできごとが日めくりでわかる。ことし9月には、市川の初めての本格的評伝である伊藤康子『市川房枝―女性の一票で政治を変える』も出版された。
■男女平等の社会を築くには
山口さんは司書としての専門性を頼りにされ、国立女性教育会館(埼玉県嵐山町)をはじめ各地の女性センター図書室の蔵書構成にもかかわってきた。横浜の大倉精神文化研究所図書館、横浜開港資料館などの目録作りにも携わった。横浜女性フォーラムによる『横浜に生きる女性たちの声の記録』(全4集)では、20人の女性にインタビューし、声を刻んでいる。
ジョークが得意でソフト。人を育てるのが上手で面倒見のいい人柄を慕われ、身辺はいつも賑やかな笑い声が絶えなかった。国会図書館職員の労組の婦人部長も務め、のちの世代が働きやすい環境作りに努力したという。そのせいか、お別れの日には多くの元職員が集まって別れを惜しんだ。
戦後、女性参政権は実現し、ことしは候補者数を均等にするよう求める「政治分野の男女共同参画推進法」もできたが、政策決定の場への女性の参加は遅遅として進まない。働く女性は増えたが賃金は低いままだ。どうすれば男女平等の社会を築けるのか。
過去の女性の歩みを手がかりに、現代の問題に取り組むことが大切だ。山口さんが資料を整理し、記録してくれたのは、理論と運動の両面での新しい展開に期待したからだ。途方もない根気と努力を必要とする裏方の仕事を支えたのは、過去から現在、そして未来に橋を架けるという希望だった。これを活かすのは、わたしたちである。(女性史研究者・江刺昭子)