大江千里と大村雅朗の共同作業「AVEC」「OLYMPIC」そして「1234」 1988年 7月21日 大江千里のアルバム「1234」がリリースされた日

「とりあえずおまえを30歳までちゃんと食えるようにしたる」

なんと “おっとこまえ” な言葉だろう。日本で一番忙しい大学生だった大江千里に、エグゼクティブプロデューサーの小坂洋二さんが語った言葉だ。セカンドアルバム『Pleasure』収録の「BOYS & GIRLS」を移動中の新幹線で作った時期、と大江千里が『Sloppy Joe』のライナーノーツで語っているので、1983年の終わり頃と思われる。

大江千里が同年代の清水信之や EPO と一緒に作ったサードアルバム『未成年』、4枚目の『乳房』をリリースしている頃、おっとこまえな言葉を繰り出した小坂氏は、大江千里とある人物を引き合わせた。

佐野元春、大沢誉志幸、渡辺美里と小坂プロジェクトで実績があり、松田聖子の一連の作品をはじめ歌謡曲のフィールドでもヒットアレンジャーとして活躍する、大江千里の9歳年上の作編曲家、大村雅朗である。

時期ははっきりしないが、大江千里は小坂氏から大村雅朗を紹介されて、当初、一回会ってみましょう、程度の軽いノリで小坂氏と大村氏と3人でしゃぶしゃぶを食べたのがはじまりだった、と、2017年に出版された『作編曲家 大村雅朗の軌跡 1951-1997』(p140)で語る。

大江千里作詞・作曲、大村雅朗編曲。このクレジットの組み合わせで最初に世に出た曲は、1985年10月発売、郷ひろみの「Cool」(当初12インチシングルで発売、大村雅朗が全曲編曲したアルバム「LABYRINTH」1曲目収録)。大江千里が書いたテンションの効いたメロディが、タイトル通りクールな音像のダンサブルなエレポップに仕上げられた。こんな感じの曲が歌いたい、と郷ひろみから発注したものだった。しゃぶしゃぶの前か後かは私にはわからない。

ここから、大江千里と大村雅朗の共同作業がはじまった。1986年発売の大江千里の5枚目のアルバム『AVEC』、シングル「Bedtime Stories」、1987年発売の6枚目のアルバム『OLYMPIC』そして1988年発売の7枚目のアルバム『1234』。これら3枚のアルバムとシングルは、すべて大江千里作詞・作曲、大村雅朗・編曲とクレジットされている。

きょうだいのような二人だったという。大江千里がピアノでヘッドアレンジしたデモテープとコード譜を大村雅朗に渡し、スタジオの隅で打ち合わせをして、作業を進めていく。詞も曲も大村雅朗に手渡す時点で既に出来上がっていたという。淡々としているが、それが大江千里と大村雅朗のコミュニケーションだった。

ときどき大江千里がこんな音にしたいと希望を出すと、大村雅朗は困った顔をしながら、スタジオのロビーでインベーダーゲームをしつつ、気が付くと大江千里の考える音像どおりに仕上げてきたという。このあたりは前出の書籍に詳しく書かれており、当時のスタジオでのふたりの風景が大江千里の綴る文章でドラマのように描かれている。

聴く側からの視点では、『AVEC』『OLYMPIC』『1234』と作品が進むにつれて、詞と曲とサウンドのシンクロ感が増しているように私には思える。

ジャケットも白黒写真で、どちらかというと曇り空のイメージが個人的に強い『1234』だが、雲の切れ目から青空がのぞくような曲が何曲かある。そのひとつが「ROLLING BOYS IN TOWN」。デーモン小暮、佐橋佳幸、大江千里によるコーラス、キーボードに隠れて流れるジャカジャカしたギター。このアルバムに全面的に参加した佐橋佳幸は、2019年発売の大村雅朗作品集のブックレットで「あらゆるスタイルのギターソロを弾いて、やけくそになって弾いた」と、大村雅朗の OK がなかなか出ず、夕方から日付が変わるまで何回も弾いた8小節のギターソロについて語っている。

もう1曲。アルバムの最後に収録の「ジェシオ’S BAR」。多くの楽器が鳴り響き、ライブ感溢れる爽快なロック。「師匠、アメリカで頑張ってな!」という思いを込めた大江千里から大村雅朗へのはなむけの曲だと私は勝手に解釈している。

「ジェシオ~」で私が大村雅朗らしいと思うのは、2コーラス後のギターソロ後「♪ 急に鳴ったベルに誰かが振り返る」にドアノックの如くドドドドドッと響く音。あまり語られないが、大村雅朗は効果音使いの巧者だ。大江千里の作品では『OLYMPIC』収録の「塩屋」の間奏に流れる電車音。大江千里『Sloppy Joe Ⅱ』のライナーノーツによると、実際に塩屋の駅で録った音は駅員のべったりした「しおやあ、しおやあ」というアナウンスで、結局その効果音は使われず、あの電車の音になった。

『1234』がリリースされた1988年7月に大村雅朗は渡米した。その後、大江千里も一時ウエストビレッジで暮らしたり、影響を受け続けていた。1991年の「格好悪いふられ方」やその後のアルバムで数曲、1993年までふたりはタッグを組んだ。

1996年末、大村雅朗はスタジオで倒れた。前出の書籍に掲載の小坂氏のインタビューによると、闘病生活の間、いちばん病院に通ったのは大江千里だった。あるときはキーボードを持ち込んで、「大村さん曲書こう」と励ましていたという。そして1997年6月29日、46歳の若さで大村雅朗は帰天した。大江千里は1998年5月発売のシングル「碧の蹉跌」を大村雅朗に捧げた。松田聖子以外で、大村雅朗がいちばん関わったのは、大江千里だった。

2008年初頭、日本でポップスのミュージシャンとしてキャリアを積んだ大江千里は47歳でニューヨークへジャズ留学し、2012年にジャズピアニストとしてデビュー。彼が作る、ポップスのにおいがほの香るジャズ作品はジャズチャートの上位に食い込んだ。現在は米国をメインに日本と欧州でもライブツアーを行い、「とりあえずおまえを30歳までちゃんと食えるようにしたる」と言われた青年は見事に世界に羽ばたいた。

2019年9月25日発売の大村雅朗の作品集『作編曲家 大村雅朗の軌跡 1976-1999』には、大江千里×大村雅朗の作品として、「Rain」(『1234』収録)、「格好悪いふられ方」(『HOMME』収録)が収録された。

この作品集がリリースされる4日前、私は2019年9月21日に博多のビジネスホテルにいた。この日に福岡・佐賀で限定放映された FBS 福岡放送の特別番組『風の譜(うた)~ 福岡が生んだ伝説の編曲家 大村雅朗』を観に行ったのだ。大江千里のインタビューはなかったが、途中のスポンサー読みの BGM として「格好悪いふられ方」が流れた。

私が涙を落としたのは言うまでもない。ありがとう。

カタリベ: 彩

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