「危ない...!」男性客で賑わうボルダリングジム。目眩に襲われた主婦を救った、男の正体とは

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―病める時も、健やかなる時も。これを愛し、これを敬い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?―

かつて揺るぎない言葉で永遠の愛を誓い、夫婦となった男女。

しかし…妻が“女”を怠けてしまった場合でも、そこに注がれる愛はあるのだろうか?

結婚後、8kgも太ってしまった栗山美月。 太っていたって、愛されていると信じていたが…久しぶりに夫婦生活を持ちかけてみたところ、夫の誠司からは、あまりにも残酷な一言が返ってきた。

親友の桐乃にも呆れられた美月は、誠司の無理解に悩まされながらもダイエットすることを決意。手始めとして食事制限を始めつつ、ボルダリングジムの門をくぐった。

カーン!と大きな音を立てて、銀色の計量カップが床に落ちた。

「美月先生!大丈夫ですか!?」

お料理教室の生徒である小野さんが、美月の元へと飛んでくる。

美月は慌てつつも、床に飛び散ったマデラ酒を布巾で拭きながらその場を取り繕った。

「あらら、レッスン中にごめんなさいね〜」

だが、そう謝る美月の心はその実、言いようのない達成感で満たされている。ボウルをつかみ損ねてしまったのは、両腕がひどい筋肉痛に襲われていたからなのだ。

始めてボルダリングジムに飛び込んでから約2週間。これまでに5回ほど通ったが、その度に美月の全身はビキビキと音を立てそうなほど激しい筋肉痛になる。

ホールドと呼ばれる壁に設置されたカラフルな石を、難易度別のルートに沿ってゴールの石まで登るボルダリング。立て続けにやるとすぐに疲れてしまうため、登る度にこまめに休憩を取ることが推奨されている。

運動をしている時間は、実質わずか30分程度だろう。それなのに、終わってみればそのたった30分の間で、身体中の筋肉がまんべんなく、かつ激しく酷使されていることに美月は新鮮な驚きを感じていた。

おそらく自力で筋トレをしていたのでは、ここまで体を追い込むことはできない。

それに、設定されたルート上の石のみ触ることが許されるボルダリングでは、意外なほどに頭を使う。ゲーム性の高さも、スポーツが苦手な美月が楽しみながら続けられている理由の一つだった。

だが、美月を何よりもボルダリングへと駆り立てる理由は、また別にあった。

美月をボルダリングジム通いに駆り立てている理由とは。ダイエットは順調そうに見えたが...

美月がボルダリングジムへ足繁く通う理由。

それは、自分の体の重さを痛感するためだ。自分の四肢の力を頼りに壁をよじ登る行為は、溜め込んだ贅肉の重さをいやというほど感じさせる。

おおらかだと思っていた自分の長所は、自分に甘いという短所でもある。

あまりに悲惨な体型になってしまったことで、そのことにようやく気づかされた美月は、すぐに揺らいでしまいそうになるダイエットの決意を、体脂肪率3割の体で壁を登ることでどうにか保ち続けているのだった。

―一昨日の筋肉痛が、まだ残ってる。うんうん、いい感じ…!

だが、美月が内心そう満足しているのに反して、料理教室の生徒さんたちの様子は不安げだ。

「美月先生…なんだか顔色悪いですよ。本当に大丈夫ですか?」

心配そうに声をかける小野さんに、山田さんも便乗する。

「ほんとほんと。いつもツヤツヤしてるお肌も、なんだか調子悪そう」

―ふふふ…。つまり、ちょっとは体脂肪も減り始めてるってことだよね…!?

2人の心配をよそに、美月は満足感に浸る。気を取り直して綺麗に洗い直した計量カップにマデラ酒を再び注ぐと、にっこりと笑ってレッスンの仕上げに取り掛かった。

「マデラソースの作り方はですね。本当はフォンドボーを使うんですけど、ご家庭で作るときにはコンソメキューブでも代用できて…」

今日のテーマは、“秋のおもてなし料理”。レッスンメニューは、秋野菜のテリーヌ。かぼちゃと栗のポタージュ。鴨肉のロティ マデラソースの3品だ。

そこに、さっとソテーした野菜と、美月特製のデニッシュ食パンを添える。調理を終え実食を待つだけの身となった山田さんが、籠に盛り付けられたデニッシュ食パンを見て興奮の声を上げた。

「きゃ〜!美月先生のパン大好き!ね、先生!今日も余りのパンいただいて帰ってもいいですか?」

美月は「もちろん!」と言いながら目配せを返した。山田さんはいつもパンを大量に持ち帰るため、そのための袋もすでに準備済みなのだった。

「いただきまーす!」

ダイエット中の美月は、いつもの味見はおあずけだ。小野さんと山田さんが声を揃えて料理に手をつけ始めるのを、カウンターキッチンで調理器具を片付けながら眺めるだけ。

だが、自分のレシピを美味しそうに食べる生徒さんの顔を見ることこそが、料理教室主催の醍醐味なのだ。

「んん〜、お店みたいな味!」

「今度家でも作ってみなきゃ!」

生徒さんの賞賛の声が、美月の胸を満たす。とりわけ、「美味しい美味しい」と言いながら料理をがっつく山田さんの顔は、見ているだけで美月の心を和ませてくれるのだった。

だが、山田さんがパンにかじりついた瞬間。いつもは詰め込むように美月のパンを平らげる山田さんの顔が、一瞬曇ったように感じた。

―あれ?喉にでも詰まったかな…?

ソースパンを洗いながら違和感を感じた美月だったが、どうやら喉を詰まらせた訳ではないらしい。

山田さんは手に持ったパンをじっと見つめていたかと思うと、そっと皿に置いた。

そして結局、すべての料理を食べ終わった後も、パンはそのまま残されてしまったのだ。

普段ならあり得ない光景に美月は思わず、帰り支度に取り掛かり始めた山田さんに声をかける。

「山田さん、パン…どうかしましたか?」

生徒さんがパンを残してしまった。美月の心を打ちのめす、彼女の一言。

山田さんは、じっと美月の顔を見据えながら言う。

「うーん…。美月先生、今日のパン味見した?なんかいつもと味が全然違ったよ」

「えっ…」

固まる美月の目の前で、山田さんが「ね、小野さん?」と同意を促している。

話を振られた小野さんは困ったように目を泳がせると、チラッと美月を一度見て、気まずそうに頷いた。

「ごめんね。パン持って帰りたいって言ったけど、やっぱりキャンセルで!じゃあ、失礼します〜。また〜」

そう言うや否や、山田さんはさっさと玄関で靴を履き始める。その横で小野さんが申し訳無さそうにお辞儀をしたかと思うと、あっという間に2人は退出してしまったのだった。

「ちょ、ちょっと…」

2人を引き止める声が、誰もいなくなった玄関に虚しく響く。美月は慌ててダイニングへと戻ると、籠に残っていたパンをちぎり口に放り込んだ。

確かに、いつもよりもリッチさが足りない。そして、その原因についての心当たりは、明確にあった。

美月特製のデニッシュ食パンは、いつもなら大量にバターを使うパンだ。だが今回は、調理中にあまりのバターの多さに急に罪悪感が湧き、何割かをアドリブでオリーブオイルに置き換えたのだった。

この2週間、食事制限のために味見を控えていた美月の頭から、一瞬で血の気が引いていく。完全に、料理講師としての自分とダイエット中の自分の公私混同が招いたミスだった。

―私、最低だ。生徒さんに申し訳ない…。女としても失格なら、料理の先生としても失格だよ…。

天井が回るようなめまいが美月を襲う。

それが、ダイエットを始めてから度々起こっているめまいなのか、仕事の失敗のショックによるものなのか、今の美月には判断がつかなかった。

土曜日の夜。前日のショックから立ち直れずにいる美月は、ベッドで力なく体を横たえていた。

誠司はすでに、隔週恒例のポルシェソサエティに出かけてしまった。現在が午後7時だから、もう2時間も前だ。つまり、美月も2時間倒れ込んでいることになる。

クリニックのテーマカラーと同じカラーリングだというミントグリーンの911は、もう富士についただろうか?美月は、お腹をさすりながら誠司のことを考える。

だが、いつもなら誠司のことを考えればすぐに胸の中が暖かくなるはずなのに、今の美月にはいまいち効果が無いようだった。

―はあ…。なんだか、何にもやる気が起きない…。

昼食に誠司に付き合わされた『香湯ラーメンちょろり』と、昨日の料理教室での失敗が、ダブルの罪悪感となって美月の胃にもたれている。

美月には珍しく、全く食欲が湧かない。なにもかもがうまくいかない憂鬱な状況の中で、たった1つそのことだけが良いニュースのように思えた。

―もう7時か…。食欲がないとはいえ、夕食にしなきゃ…。

美月は力が入らない体をどうにかベッドから起こすと、フラフラとした足取りでキッチンへと向かう。そして、冷蔵庫の扉を開き、一本の大きな瓶を取り出した。

“発酵野菜の底力♡キューティースリム酵素”

ピンクのラベルには、金色の箔押しが輝いている。

桐乃のインスタを覗いている時に出てきた広告で、「1ヶ月でマイナス10kg‼︎」という謳い文句に惹かれて購入した、高価な酵素ドリンクだった。

今すぐ痩せて、一刻も早く愛されたい。焦燥感が美月を蝕む

お猪口のように小さなグラスに注いだわずかな酵素ドリンクは、これ一杯だけで1日に必要な酵素を摂取できるのだという。

この2週間のあいだ美月は、誠司と共にしない食事をもっぱらこの酵素ドリンクに置き換えて、摂取カロリーカットに励んでいるのだった。

「今日の夕食、終わり…っと」

ひとりぼっちのキッチンで、そう声に出してみる。

「ごちそうさまでした…」

美月の呟く声に、反応する人はいない。

幸福からはあまりにもほど遠い、味気のない食事。

誠司が不在の今は、いつもであれば桐乃と笑顔で焼肉とビールを楽しんでいる時間のはずだ。その事実が、美月の虚しさをますます募らせた。

虚しさを通り過ぎ、もはや言い知れない不安感に襲われはじめた美月は、半ば無意識のまま着替えの入ったトートバッグを掴む。

―虚しい…。でも…痩せなきゃ…。痩せて綺麗にならなくちゃ…。

その言葉だけが、美月の頭の中をグルグルと駆け巡っていた。

気がつけば美月は、ボルダリングジムを訪れていた。

土曜の夜のジム内は、いつもとは全く雰囲気が違う。

普段通っている平日の朝には利用客は美月だけしかいないのだが、今夜はそう広くないジムの中に3人の男性利用者が存在していた。雑談を交わして盛り上がっている様子から見て、もともとの友人同士か常連なのだろう。

反対に、いつも受け付けのカウンターに座っているずんぐりとした中年男性スタッフは留守のようだ。

若干の居心地の悪さを感じた美月は、なるべく目立たないよう壁の一番端に身を寄せる。そして、手足をブラブラと振って準備運動をすると、スタート地点のホールドにしがみついた。

―次は、右手であのホールドを掴みにいく…。それから、右足を移動させて…。

思った通りだ。ゲームに夢中になっている間は、虚しさが紛れる。

何もかもが遠くなる。

真剣に向き合ってくれない誠司も、ふがいなさが招いた仕事の失敗も。

全てが遠のいて、ただ脂肪の重みが美月を戒めるばかりだ。

しかし、気力ばかりが満ちてくるのとは裏腹に、体は言うことを聞かない。上へ上へと伸ばそうとした右手が、重い。この先どう動いたらいいのか、頭が働かない。

しばらくはそれでもゴールまで登ろうと足掻いていた美月だったが、次第に手先が冷たくなるような感覚を覚えた。

やむを得ずホールドから手を離し、地上に敷かれたクッションの上へと降り立つ。だがその途端、地面がグラグラと揺れ始める。いつものめまいが、またしても美月を襲いはじめたのだ。

とにかく、壁の側から離れなければ…。

他の利用者が上から落ちてくる可能性もあるため、登っていない時は早急に壁から遠ざからなければいけない。そう理解してはいるものの、冷や汗ばかりが流れてくる。足を思うように進めることができない。

―うぅ…ダメ、なんか、気持ち悪くなってきた…。

ついに立っていることすら堪えきれなくなった美月が、その場にうずくまろうとした時。

不意に、左手が強い力で引き寄せられた。

硬く、しかし暖かい感触が美月を包み込む。朦朧とする意識の中で美月が目線を上げると、そこにはメープルシロップのような深く透き通った茶色の瞳が美月を見下ろしていた。

「危ないよ」

無骨な低い声が、空っぽの胃に響く。

美月は、倒れ込んだ自分の体が男性に支えられていることにようやく気がついた。

しなやかに引き締まった腕。

それはまぎれもなく、このジムを発見した時に「綺麗になりたい」と決意させた、あの美しいクライミングフォームの男性インストラクターのものだったのだ。

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夫から溺愛され、好き放題にやってきた美人妻・めぐみ。最近夫の様子がおかしいことに気づき…。夫を大切にすることを忘れた妻の行く末は?続きは、明日の連載をお楽しみに!

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