「カネやん」の愛称で親しまれた400勝投手 伝説の左腕・金田正一さんが死去

2019年6月、プロ野球交流戦のロッテ戦の試合前、巨人の原辰徳監督(左)と写真撮影に応じる金田正一氏=東京ドーム

 400勝投手、金田正一さんが10月6日、急性胆管炎による敗血症のため、東京都内の病院で亡くなった。享年86。

 「カネやん」の愛称で親しまれた伝説の左腕は、プロ野球の投手の記録という記録を独り占めにしてその人生に幕を下ろした。

 筆者はスポーツ紙の駆け出し記者時代にロッテ担当として「金田監督」と出会った。

 当時のパ・リーグは人気面でセ・リーグに大きく水をあけられていた。「人気のセ、実力のパ」と言われた時代だ。

 現役時代は大投手だった金田さんは、采配だけでなく話題作りに腐心して広報部長のような役割も買って出ていた。

 鹿児島キャンプではファンサービスの一環として、ランチタイムに担当記者が金田さんの投球を受けさせられた。

 もちろん2、3割程度のピッチングだが、スローカーブに思わず腰が浮いた。

 暴投かと思ったらストンと膝元まで曲がり落ちて来た。現ソフトバンク球団会長の王貞治氏が「2階から落ちて来た」と表現する伝説の魔球だった。

 本人は「180キロは出ていた」と豪語するストレートとカーブだけで400の白星を積み上げた。

 最多勝、最優秀防御率に沢村賞を各3度受賞。生涯4490個の三振を奪い、奪三振王には10度輝いている。

 ありとあらゆる投手記録を保持していると言って過言ではない。もちろん、完全試合とノーヒットノーランも成し遂げた。

 一口で400勝と言うが、それは天文学的な数字だ。

 単純に考えても20勝を20年続けるのと同じこと。金田さんの実働は20年で、今後絶対に破られないであろう金字塔である。

 ちなみに現在に置き換えて、最高の投手と呼ばれる巨人の菅野智之と比較してみる。

 プロ7年目の菅野の通算成績は87勝47敗。最も多い投球回数は2018年の202回で200奪三振。これに対して金田さんの最も多い投球回数は1962年の400回で奪三振は350を数える。

 つまり金田さんは1シーズンで菅野の倍のイニングを投げて1.5倍の三振の山を築いているのだ。

 昔のエースの登板間隔は中4日が当たり前だったのに対して、今は中6日が主流。金田さんにはダブルヘッダーの初戦に先発して勝利投手になると、続く第2試合でも救援に出てきて1日で2勝を挙げたという記録もある。

 凡人にはまねのできない逸話である。

 記録にばかり話題は集まるが、金田さんは野球界の革命児でもあった。

 昭和の球界は「酒のにおいをプンプンさせて本塁打を放った」といった豪傑伝説が数多くあるが「体は資本」の哲学を実践したのが金田さんだった。

 キャンプには、自ら鍋釜を持ち込んで「金田鍋」を振る舞う。

 高級な肉、魚、野菜をバランスよく吸収することで頑健な肉体を作ろうというものだ。

 トレーナーのシステムもいち早く導入して、体の手入れを怠らない。さらに、高級外車のキャデラックに専用運転手をつけたのも、万が一の事故に備えて体を守る発想からだった。

 もちろん、グラウンドでは人一倍の練習量を誇った。

 「投手の生命線は強靭な下半身を作ること」が持論で、徹底して走り込んだ。

 国鉄(現ヤクルト)から巨人に移籍した1965年、「天下の長嶋茂雄と王貞治」が金田さんの練習量とプロ意識の高さに驚いた言われている。

 868本の本塁打を記録して世界一の本塁打王と呼ばれる王さんも、若いころは酒好きで不摂生もしてきた。しかし、目の前で日本一の投手が汗水たらしていれば考えも改まる。

 以来、二人の大スター選手が先頭に立って練習に打ち込んだから「V9」を成し遂げることができたのだ。

 時の巨人の名将・川上哲治氏は「金田イズム」をチームに導入するために、金田さんを招聘したと言われている。

 「昭和の怪物」「平成の怪物」そして「令和の怪物」と、マスコミはその時代のヒーローを作るのが好きだ。

 しかし、金田さんの残した記録と足跡は、そんな怪物伝説すら薄っぺらいものに感じさせてしまう凄みがある。

荒川 和夫(あらかわ・かずお)プロフィル

スポーツニッポン新聞社入社以来、巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)などの担当を歴任。編集局長、執行役員などを経て、現在はスポーツジャーナリストとして活躍中。

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