【世界から】スイス、食糧危機と戦う日本人生物学者

チューリヒ大の清水健太郎教授。手にしているのが、芽が出たばかりの「Cardamine insueta」=中東生撮影

 歯止めがかかる気配が一向に感じられない気候変動。その影響は今や肌で実感できるほど深刻になっている。それに伴って、干ばつや洪水といった自然災害も年を追うごとに悪化し、慢性的な食料不足を引き起こす大きな要因となっている。事実、国連機関の世界食糧計画(WFP)などの調査では2018年に約1億1300万人が干ばつなどによる食料不足で飢餓状態に陥ったほか、飢餓には至らないものの栄養失調状態の人が全人類のおよそ9人に1人に当たる計8億人以上いると推測されることが明らかになっている。

 現在はアフリカやアジアの一部地域にとどまっているが、地球全体の食物生産に大きな影響を与える日が遠からず訪れるに違いない。人類が存続の危機にひんすることを意味するそんな日に備えて、研究に突き進む生物学者がスイスのチューリヒ大学にいる。それがチューリヒ大進化生物学・環境学研究所の清水健太郎教授。日本を含む世界180カ国以上で定期購読されている雑誌「ナショナル ジオグラフィック」に紹介する連載が掲載されただけでなく、日経ビジネスの「世界を動かす50人」にも選ばれるなど注目を集める1974年生まれの若き研究者だ。

▼〝特殊能力〟を持つ植物

 清水教授は2006年からチューリヒ大に籍を置いている。そして、ここスイスで出会った新種の植物からヒントを得て、あるメカニズムを発見した。

 それが「異なるゲノムを持つ植物が組み合わさった時、それまでにない急激な進化をする」だ。詳しくは後述するが、このメカニズムをコムギに応用すれば危ぶまれている気候変動による食糧危機を防げる品種を作り出せるはず―。そう清水教授は考えている。

 チューリヒ大に職を得た清水教授は、13年に亡くなったエリアス・ランドルト氏、そして同氏が発見した新種の植物「Cardamine insueta」と〝偶然〟の出会いを果たす。「Cardamine insueta」は20世紀に入ってから出現したと考えられるアブラナ科の植物。日本では生息していないが、水田を始めとする水辺に群生する「タネツケバナ」の一種で「時に水につかるような環境」と「乾燥した環境」という条件が正反対の場所で生息できる〝特殊な能力〟を持っている。ちなみに、誕生の経緯は次のように推定されている。森林開拓の影響で乾燥した場所が広がった影響で、乾燥した場所を好む品種が冠水した環境でも生きられる品種と出会うことになり、双方の特徴を受け継いだ―と。

 「Cardamine insueta」と清水教授が出会ったことで、将来の人類を救う可能性が出てきた。この組み合わせが生じるきっかけを作ったのがチューリヒ大だ。そこには「偶然の必然」と言い表すのがぴったりの見えない大きな力が働いているような気がする。そこで、無理を承知で清水教授がどう感じているのかを聞いてみた。

 「科学者というものは、自分で職場を選べるわけではありません。世界中にある例えば50カ所ほど(の研究機関)とコンタクトを取り、興味を持ってもらえたところの中から自分にとって一番良い場所を選ぶのです」。研究者が置かれている現実をそう説明してくれた清水教授は続けて、次のような分析を口にした。「当時はDNAの大量データを解析する分野、古い言葉で言えば『システムバイオロジー』がはやり出していたので、そういう研究をしていた私が選ばれたのでしょう」。冷静に話す清水教授をチューリヒ大が選び、そして自身もチューリヒ大を選んだ。

花を付けた「Cardamine insueta」=中東生撮影

▼農林61号

 世界三大穀物の一つであるコムギに清水教授が興味を持ったのは大学生のころ。中でも、パンの原料として使用される「パンコムギ」は他の植物よりもゲノム解読が難しい。約1万年前に異なる三つの種が交雑することで偶然に生まれたためだ。そんなこともあって、他植物の研究で経験を積んだ後、ようやく3、4年前からコムギの研究に着手した。彼が注目しているパンコムギは「農林61号」。1950年くらいから九州、関西、関東と広い範囲で栽培されている品種で、どの地方でも安定して多くの収穫ができるという。コムギの研究は昔から日本でも盛んで、第2次世界大戦中の44年には敵国だったアメリカと日本が偶然、同じ研究結果にたどり着いたという歴史もある。しかし、2017年初頭にカナダを筆頭とした、アメリカ、ドイツ、スイス、イギリス、オーストリア、中国が「国際コムギゲノム解読コンソーシアム」を発足させた時、日本は含まれていなかった。その後、清水教授らの努力で仲間入りを果たし、彼は日本代表を務めている。

 東アジア、特に日本のコムギはヨーロッパのそれに比べてもともと気候変動に強い。それでも、平均気温が1~2度上昇すると生産量は10%程度下がると推定されている。今後も温暖化が進み続けると、高温に弱いコムギを現在と同じ地域で栽培することは難しくなってしまう。そこで、清水教授が発見した「異なるゲノムを持つ植物が組み合わさった時、急激に進化する」メカニズムを利用する。温度や湿度に適応した異なる品種を組み合わせて「気候変動に強いコムギ」を新たに生み出し、世界中で栽培すれば食糧危機に陥る能性を高めることが期待できるのだ。

▼名誉より「面白さ」

 清水教授の斬新さは次の2点。(1)異なる2種の生物が合わさって生まれた種の研究が遅れていることに目をつけた(2)生物学における研究・実験する場を、実験室から森や林といった現場に戻し、実際に生きていく場所で遺伝子がどのように変わるかに注目した―ことだ。

 そこには、「もともと山歩きが好き」で「昔から生物だけでなく物理、数学にも興味があったので、それら全てを結び付けた進化生物学に進んだ」という清水教授自身の生きざまが投影されている。現在は「農林61号の全遺伝子とDNAの配列解読は終わり、その頑健性を解析しているところ」という。具体的には(1)どんな遺伝子があるのか(2)その遺伝子が環境によってどのように発現するのか―を解明することにより、気候変動に強いメカニズムをコムギに持たせるにはどのようにすればよいのかを調べているのだそうだ。

 「研究結果がまとめ上がれば、後は農学者に委ねる」。何と世間的な評判が最も高く名誉が約束されている、実際の新種開発には携わらないつもりなのだ。そんな誰もが驚くようなことを清水教授はさらりと語った。

 そんな姿には、自身を「救世主」と見るような傲慢(ごうまん)さはみじんも感じられない。清水教授の心にあるのはただ一つ。「面白い事を見つけて来て、面白いと伝える事が科学者の使命」というきわめてシンプルな考えだ。多忙なスケジュールの合間を見つけては、植物園ツアーの企画などといった、およそ研究には役立たないと思われることに積極的に携わっているのも十分うなずける。

 日本の若い科学者たちにも心を砕いている。「海外へ留学する人が減っているが、外国に出たら戻れないと思うのは間違い。私の研究室からも日本へ帰国した後、研究職に就いている人が4人います。(さまざまな面で日本とはまるで違う)海外で環境を変えることも研究者としては大切」。自身もアメリカに留学し、現在はスイスに拠点を置きながら日本の大学でも客員教授として活動する清水教授が話す。チューリヒ大の「清水研究室」を希望するなら、もちろん歓迎するそうだ。

 全ての人類が空腹から救われる日もそう遠くはない…。穏やか、でも強い意志を感じさせる話しぶりの清水教授を前にして、そう確信した。(チューリヒ在住ジャーナリスト 中 東生=共同通信特約)

清水教授の研究室。国も人種も違う様々な若者が食糧難を救うための研究に携わっている=中東生撮影

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