【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.197

▲山田顕義旧邸跡(白石)

(10月9日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

新聞紙印行条例

 1869(明治2)年2月8日、新政府は新聞紙印行条例を公布した。

 前年2月24日、柳河春三は、国内で初めてとなる中外新聞を創刊。外国事情の紹介と国内報道に力を入れた内容で、売れ行きは抜群であった。また、上野戦争の際には、号外の元祖といわれる別段中外新聞が発行された。だが、旧幕府寄りの内容であったこの新聞は、6月には、東征軍によって発行を禁止され休刊。条例公布後に復刊したが、翌年、春三の死により廃刊となった。

津軽海峡

 3月9日、東征軍の4隻の軍艦、甲鉄、春日、陽春、丁卯と、4隻の運送船、飛龍、豊安、戊辰、晨風が品川沖を出港、陸軍が陣を置く青森を目指した。

 一方、旧幕府軍は、前年の10月26日、箱館の五稜郭を接収。11月5日には松前城陥落に成功。12月15日、蝦夷地平定の祝賀会を開いた。

 翌年3月25日、東征軍の艦隊が集結する宮古湾に、旧幕府軍の軍艦、回天が甲鉄奪取のため突入するが撃破された。

 4月6日、東征軍は、参謀・山田顕義率いる1500人が青森を発し、9日、乙部への上陸を開始した。

(続く。次回は10月23日付に掲載します)

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