古市憲寿さんの芥川賞候補作をめぐる“騒動”が問うもの 書評家、倉本さおりさんと読み解く日本文学の現在と未来

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 7月に発表された第161回芥川賞。「むらさきのスカートの女」で栄冠を勝ち取った今村夏子さんが注目を集める中、厳しい批判にさらされた候補者がいる。社会学者、テレビコメンテーターとして知られ、2回連続で芥川賞候補となっていた古市憲寿さんだ。参考文献として記載されていた別の小説をめぐって、問題視する声が選考委員から上がった。抜群の知名度を誇る候補者だっただけに、雑誌「文芸春秋」9月号に掲載された選評をめぐって、SNSでも賛否さまざまな意見が飛び交ったのは周知の通り。

ただこの“騒動”、どうも捉えどころがない。いったい何が問題だったのか?

 まず経緯をおさらいしておきたい。

 候補になっていたのは、古市さんの中編小説「百の夜は跳ねて」。主人公の「僕」は、ゴンドラに乗りながら都心の高層建築の窓を拭く仕事に従事している。命の危険を伴う仕事で、実際に「僕」の先輩は仕事中に命を落とした。大学時代の友人らが有名企業に就職している様子からすると、どうも高学歴ワーキングプアと呼ばれる状況のようだが、本人は別段悲観もせず、ぼんやりと続いていく日々にそれなりに満足している。同時に、もうこの世にはいない先輩の語り掛けてくる言葉が聞こえているなど、緩慢な死を望むような虚ろなムードも漂う。

 そんな「僕」はひょんなことから、タワーマンションに独りで暮らす、かなりの資産家らしい高齢の女性と知り合う。彼女から依頼されたのは、仕事中に窓ごしに見える建物内の様子を写真に撮ってくること。職業上許されない盗撮行為と知りつつ、高額な報酬と引き替えに、「僕」は実行に移す。そうして始まった女性との奇妙な関係を通して、「僕」にとっての「他者」の意味が少しずつ変化していって…という物語だ。

 古市さんは一つ前の160回芥川賞でも、中編小説「平成くん、さようなら」で候補となっていた。最先端の技術による安楽死を望む男性を描いた、少しSF的要素を含む物語。メディアの寵児である「平成くん」の人物造形が、どこか著者の古市さん自身を思わせたこともあり、「自分史ポルノ」といった辛い評価で落選している。

 実は、選考会前に「百の夜は跳ねて」を読んだ際、受賞する可能性もあると感じた。まず、非人間的なほどに合理主義者な「平成くん」に感情移入しづらかった前作と比べ、今作では、低体温な「僕」の内面描写の中にも、どこか割り切れない感情がにじみ出ていた。世相もうまく表現されていると思った。例えば、学生時代に「僕」をデモに誘った友人は、就職活動の時期になると大手企業の面接を受け、その過去などなかったかのように振る舞う。グーグルマップ、小型のウェアラブルカメラなど、純文学ではあまり描かれないが現に私たちの生活に根付いているテクノロジーが、自然と作中に登場する。そして何より、読み手を引き込む物語としての力が増していると感じた(この点は、「確実に進化はしている」とした島田雅彦さんら、複数の選考委員が一定の評価をしている)。芥川賞は今後の活躍が期待される作家に贈られる新人賞。これまでも、荒削りながら新鮮な感性を持つ作家が多く受賞し、やがて文壇の中核を担う存在へと成長してきた。

ただ、ある懸案が浮上した。同作は最後に参考文献が記載されている。そこに「木村友祐『天空の絵描きたち』」とある。「文学界」2012年10月号に掲載された小説だ。

 小説の参考文献に同時代の小説が載っているのは、たしかに珍しい。選考会以前から、誰が受賞しそうかを予測し合う文芸記者同士の雑談の中でも話題には挙がっていた。当然、プロの書き手にしてプロの読み手でもある選考委員の目にも留まる。多くの委員は、木村さんの作品も読んだ上で、選考会に臨んだようだ。

以下、選評の言葉を抜粋してみたい。

 「候補作が真似や剽窃に当たる訳ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっと、ずっとずっと巧妙な、何か」(山田詠美さん)

 「わたしは悲しかった。木村友祐さんの声が、そのまま『百の夜は跳ねて』の中に、消化されず、ひどく生のまま、響いていると、強く感じてしまったからです」「ものを創り出そうとする者としての矜持に欠ける行為であると、わたしは思います」(川上弘美さん)

 「参考文献に挙げられていた木村友祐氏の佳品『天空の絵描きたち』を読み、本作に対して盗作とは別種のいやらしさを感じた」「あいにく『天空の…』の方は書籍化さえされておらず入手困難であり、まさにこの辺りに本作が持ついやらしさがあるように思う」(吉田修一さん)

 「参考文献にあげられた他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか」(堀江敏幸さん)

 堀江さんが用いた「かっぱいで」は、作中に登場する窓を拭く動作を意味する表現。「外にあるさまざまな言葉をコラージュして作る作者の方向を、小説とは元来そういうものであると考える自分は肯定的に捉えた」と擁護した奥泉光さんを除き、異例の辛辣な選評だったと言える。

昨年、東日本大震災の被災者を主人公にし、ノンフィクション作品などとの表現の類似を指摘された北条裕子さんの群像新人文学賞受賞作(芥川賞候補にもなった)「美しい顔」で問題とされたのは、参考文献の非表示だった。同作は、震災の非当事者が当事者を描くことの是非という難しい問いも投げ掛けたが、少なくとも参考文献に関しては、何が争点とされているか明確だった。それに対し、参考文献を自ら明示した結果、「もっと、ずっとずっと巧妙な、何か」などと指弾された今回の事態は、一般にはなかなか分かりにくいのではないだろうか。

 そこをなんとか解きほぐしたい。とはいえ自力では難しい。そこで、助力をあおいだ。お話をうかがったのは倉本さおりさん。新しい日本文学の担い手たちを注視してきた、気鋭の書評家だ。

 倉本さんも木村さんの作品を読んでいる。その上で「木村さんの作品は、群像ドラマの側面も持ち合わせた、人情味の強い小説。だからこそ、古市さんの作品とは別物に近い。要素だけに注目すれば似ている部分があったとしても、作品から受ける印象はまるで異なると私は思います」と話す。

 参考文献を明示したことについては、北条さんの問題を受けて版元が慎重になっているといった臆測も飛び交ったが、倉本さんは「古市さんにとっては当たり前ことだったのではないか」と指摘する。「学問の世界においては、論文や論考を発表する際、参照した雑誌の記事といった細かいものまで全て列挙するのがごく一般的なルールですよね。古市さんは社会学者ですから、そのマナーに則っただけのような気がします。実際、『平成くん、さようなら』の巻末でも同じように参考文献を列記していますし」

 筆者も木村さんの作品を読んでみた。

主人公はビルの窓拭きを仕事とする若い女性。当初は慣れない仕事に戸惑うが、仲間に囲まれて働くうちにやりがいや愛着も感じるようになる。後輩思いで窓拭き名人の先輩にほのかな恋心を寄せてもいる。描かれるのは、死の危険を共有する同僚たちとの関係、死を身近に感じるからこそ浮かび上がってくる生の手応え、厳しい労働環境や搾取の現実、そして、誰から軽視されようとも譲れない仕事への誇り。終盤、ある悲しい出来事が主人公らを襲うが、それでも前を向いて生きていこうとする姿が胸を打つ。書籍化されていないことが不思議に思える良作だった。

 似ているかというと、たしかに倉本さんの指摘通り「要素」には重なる部分がある。まず窓拭きという仕事自体がそうだ。そして、「かっぱぐ」という言葉、先輩の死。ロープでつるされたゴンドラに乗っての危険な仕事のさなか、登場人物らが意味もなく性的な興奮を覚えたり、性的な話題に興じたりする姿も、「百の夜は跳ねて」の冒頭で、主人公が仕事中に同僚の女性から性的な行為をされる場面を思わせはする。ただ、古市さんの作品が描いたのがどこか生の手応えを欠く若者の姿だとすれば、題材が同じであるだけで、世界観はむしろ正反対とも言えそうだ。

 「同感です。両作とも格差社会で不安定な職に就く若者の姿を描いていますが、木村さんの作品からは、労働の成果の虚しさと対置されるように人間の『実存』が濃厚に匂い立つ。それに対し、古市さんの作品においては人間とモノとが等価値というか、等距離に並んでいるように映るんです。それはインターネット以降に変化した人々の価値観のありようの違いでもある。要するに、木村さんの作品に描かれているものが、1990年代から2000年代の、停滞した日本社会の空気を体感した人にとって非常になじみのある感覚だとすれば、古市さんのはおそらく10年代以降の感覚。一定の世代にとってはむしろ、古市さんの感覚の描き方のほうがリアルに感じられる場合もあると思います」

 その違いは例えば、ゴンドラ上での「性」の描かれ方にも表れているとみる。「木村さんの作品では、ある同僚が口にしたろくでもない下ネタを、もうひとりの同僚があくまで軽口としていなす場面が描かれていますよね。それは現場の関係性において了解された、日常的なコミュニケーションの姿だともいえるでしょう。しかし、古市さんの作品では、しかるべきやりとりもなく唐突に主人公が性的な行為をされる場面が描かれる。しかも、その後に主人公がキスをしたいと言えば、断られてしまう。どこまでも一方向でしか理解できない状態です」

 両作に出てくる「先輩」との関係もそうだ。木村さんの作品では、主人公と先輩の対面でのさまざまなやり取りが描かれる。対して古市作品では、先輩はすでに亡くなった存在で、ただ一方的に語り掛けてくる。「タワーマンションに住む女性との対話も、終盤まではほとんど双方向的なコミュニケーションとして成立していません。むしろコミュニケーション不全の部分が強調されているといっていい。あの作品では、徹底的に『他者』としてしか存在し得ない人間の姿が、繰り返し描かれているんです」

 ではなぜ、選考委員の評価はあれほど苛烈なものになったのか。倉本さんは選考委員に情報が正確に伝わっていなかった可能性にも言及する。

「古市さんがビルの窓拭きという仕事について描写する際、木村さんの作品を材料にして書いたのだと判断した可能性はあります。でも実際には、古市さんは木村さんの紹介で、そうした仕事に従事している人に直接取材している。木村さんも古市さんも同一人物に話を聞き、そこで感じ取ったものがそれぞれ異なった結果、似た設定の全く違うタイプの二つの作品が生まれた。そう捉えるのが妥当だと思います」

 木村さん自身もツイッターで、古市さんからの取材依頼に応じ、「窓拭き達人」を紹介したと明かした上で、「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです」「窓拭きが落ちて死ぬ、というエピソードなど細部が似るのは、同じその達人から取材したからだし、実際に死ぬ人がいるから、仕方ないのです」と説明している。

 もう一つ、倉本さんが言及したのは、古市さんの描く人間像や感覚を、選考委員が受け入れがたく感じた可能性だ。

 「小説表現としての単なる巧稚の問題を除けば、もしかしたら選考委員の何人かは、まさに木村さんが描いたような生の輝きをないがしろにされたと感じ、悲しみを覚えたのかもしれません。私自身、木村さんの作品のように、濃やかな人間の描き方や感情をえぐり出す言葉に惹かれる読み手です。古市さんの筆致からにじみ出す、どこか鈍磨したような視線や態度を、一種の暴力のように感じる面もたしかにある。ただ、古市さんの無機質な価値観のほうを近しく感じる人は現にいるわけで、それを否定してしまったとき、それは彼ら彼女らから見れば排除、排斥に当たりますよね。いわば、身体性のなさこそがリアルな身体性である世代にとって、それ自体を否定される社会は生きにくい。古市さんの作品に現れている希死念慮も、実はそこに起因している部分があるのではないかと、私はみています」

 そうだとすると、今回の古市さんの作品をめぐる選考委員の言葉は、図らずも、今の社会が抱える世代的な分断を体現しているともいえる。選考委員は、これまで筆者も読み、感銘を受けてきた作家ばかり。だからこそ、選評での激しい言葉には戸惑いも覚えたが、言葉や身体性と切実に向き合ってきた矜持から発せられたものだとすると、理解できる。一方で、古市さんのようなニュータイプの書き手との間の溝を思うと、今後の日本の文学に対してどこか出口のなさも感じてしまう。

 「『自分のことだ』と思える人間の姿が描かれていないと、若者は文学に絶望し、読まなくなってしまいますよね。それでは、文学に未来がない。とある評論家の方が『テクノロジーが文学のかたちを変えていく』と言ったことがありますが、たしかに、描写のあり方、人間とモノの距離感は時代によって変わっていく。だからこそ、今後もっと増えてくるであろう古市さんのような人間観で書かれた小説を、オールドタイプな読み手である私たちがどう受け入れていくのかが重要な課題ではないでしょうか」

 「百の夜は跳ねて」の終盤では、政治的な活動にいそしむ母親のことを完全には理解できないまま、それでも向き合おうとする「僕」の姿が描かれる。今後、日本文学がより豊かになっていくために必要なのは、感覚を共有しづらい世代間の、理解しがたい「他者」となんとか向き合おうとする不断の試みなのかもしれない。(瀬木広哉・共同通信文化部記者)