憧れの米軍ハウス~狭山アメリカ村~(後編)

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奇跡の狭山アメリカ村のハウス

 

 米軍ハウスをめぐる旅。

 最後にたどり着いたのは狭山だった。

 そこには、私が17歳の時に家族で引っ越した実家がある。 

 それまで住んでいた日野市多摩平から米軍の軍用道路と呼ばれた国道16号線を北上。 

 米軍横田基地のフェンスが延々と続く先には航空自衛隊入間基地がある。

 父はそんな16号線沿いの街、埼玉県狭山市に家を建てた。

 私はほんの数年しか暮らしていない家だが、父がなぜそこに居を構えたのか不思議でならなかった。

  私にとって、狭山での暮らしは戸惑いの連続だった。

 昼間は自衛隊機が上空を旋回。工場に勤める人の車で国道は渋滞。

 日が暮れると闇が忍び、街灯もほとんどない。

 住宅地よりも広い茶畑と農地と雑木林に覆われた裏寂しい川沿いの町。

 我が家もそんな町の雑木林の中にひっそりと建っていた。

 狭山に引っ越した頃、名画座で出会ったのが『ラスト・ショー』(1972年 ピーター・ボグダノヴィッチ監督)。

 テキサスの小さな町のただ一つの映画館が閉鎖されるラスト。

 朝鮮戦争へ出征する若者。郷愁。米国の一つの時代の終わり。地方の町特有の閉塞感。そこから出てゆけない人たち。映画の端々に、どこか裏寂しい狭山のイメージが重なった。

 

 こうして17歳という最も多感な時期に狭山にぶち込まれた私は、いつものように「ここ」ではない「どこか」を求め、のらのら歩き出会ったのが「稲荷山公園」だった。

 稲荷山公園は、かつて米軍ジョンソン基地内にあり「ハイドパーク」と呼ばれていた。朝鮮戦争の頃、軍人家族が大挙して押し寄せたので、ここに続々とハウスが建てられた。

 それが、「狭山アメリカ村」の始まりである。

  基地の周りは、基地相手の商売屋で賑わった。洗濯屋、大きな料亭、芸者の置屋、洋装店、代筆屋など多くの店が軒を連ねる。

 1950年代には少年時代のジョン・デンバーが基地内のハウスに家族と暮らしていたという星条旗新聞の記録もある。

  しかし、ジョンソン基地は滑走路が短かったため輸送機の離発着には不向きだった。

 やがて、ベトナム戦争の頃には横田基地の方が主力となり、米軍家族たちも横田基地へと移動した。

 73年、ジョンソン基地は返還されて航空自衛隊入間基地に。

 家主を失ったハウス群は一般に貸し出された。

 2LDKで家賃2万3000円という魅力的な家賃に都心からアーティストたちが移住。 

 次第にアートビレッジのようになっていく狭山アメリカ村。

  細野晴臣さんが狭山アメリカ村のハウスに音楽活動の拠点を移していたのは割と知られた話だが、そこで欠かせないのが、桑沢デザイン研究所卒のアート集団「ワークショップMU!!」の存在だ。

  70〜80年代の人気ファッションブランド「DO! FAMILY!」や大瀧詠一さんのレコードジャケットを手がけた「ワークショップMU!!」。彼らのアメリカンなデザインは、ハウス暮らしだからこそ生まれたのかもしれない。 

  70年代の狭山アメリカ村。

 ハウスから生まれたカルチャーは今に継承され、時を経てなお存続する「ハウス」は、もはや文化遺産なのではないかと思えてくる。

  そして、2005年。

 稲荷山公園で「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」という音楽イベントが開催された。

 主催は、狭山アメリカ村に住むプロモーターの麻田浩さん。

 同じくハウスゆかりの細野晴臣さん、小坂忠さん、鈴木茂さん、洪栄龍(コウ・エイリュウ)さん、はちみつぱいなど伝説のミュージシャンが参加。若手ながら、星野源さんもSAKEROCKとして登場した。私は骨折中で行けなかったが、夫は仲間たちと観覧。

 豪雨に見舞われた伝説のフェスとして長く語り継がれている。

 

稲荷山ハイドパークで、 当時のハウスの残骸と遊ぶ

 

 さて、現在の稲荷山。

 まだハウスはあるだろうか。

 今回、初めて稲荷山周辺を歩いてみた。

 稲荷山というが、そこは小さな丘。16号線と並行して入間川が流れ、その遥か向こうに脈々と連なる秩父連峰も見える。

  当時はこういう風景を裏寂しいと感じた。

 しかし米軍家族じゃないが、遠く離れた故郷〈HOME〉を想起させる風景に見えなくもない。

  稲荷山公園に向かう道とは違う、細い古い道を通ってみる。

のらのら上がってゆくと、いかにもアーティストが住んでいそうな住居がちらほら。

 のら猫探偵は、この辺りにハウスの匂いを嗅ぎとった。 

 すると、小さな神社に突き当たった。

 きっとこの神社には何かゆかりがあるはずと小さく柏手を打ち、踵を返すと、なんとちょこんと白黒のブチ猫がいた。

 尻尾をフリフリ満足そうに寛いでいるブチ猫に、「この辺にハウスはありませんかねえ?」とおばさんデカの市原悦子よろしく尋ねると、なんと尻尾フリフリある方向を指示するではないか。

 のらのら辿るとちょいと不思議な三叉路に出た。

  三叉路の一角に鬱蒼と茂る植物に埋もれて青いペンキのハウスと思しきものがある。

 その先に、仕舞い忘れたような猫の舌みたいな小径が私の目に止まった。

  その小径は『オズの魔法使い』の黄色いレンガのように、ほのかに発光していた。

 興奮ぎみに足を踏み込んだ瞬間に私は確信した。

 この小径は、私が小さい頃に見たハウスの小径と同じ幅だと。

  なんと、そこにも猫がいた。

 白とグレーのハチワレ猫ちゃんが尻尾を立てて、「こっちだにゃん!」と私をどんどん奥へ誘うのだった。

  私はハッと息を飲む。なんと、目の前に突如「ハウス」が現れた。

 青の屋根にふさふさの芝生の庭付きの白いハウス。

 魔法の国に迷い込んだドロシーのように目をぱちくりさせ驚く私。

 

 

猫に誘われ奇跡のハウスに出会う

 

 件の猫ちゃんはなんともう一軒のハウスへひょろりと消えた。

 かと思ったら、猫と入れ替わりになんとロングヘアの可憐な女性が現れた。

  なんだ、なんだこの展開は!

 彼女は小金丸さんという方で、3軒連なる旧米軍人宿泊施設のハウスでご家族と暮らしていた。ご主人は入間基地の滑走路が見える丘の上にひっそり佇む「ジョンソン・カフェ稲荷山」のオーナー。勝手に迷い込んだ私に優しく応対してくれたばかりか、お向かいさんまで呼んでくださった。

 お向かいさんは、先ほどの芝生ふさふさの白いハウスの家主で名前はコウさん。

 ハウスについて書かれた本について立ち話をしているうちに、「あれ、この人はもしや?」とのら猫アンテナがビビビと反応。

 コウさんは、60年代から活躍する超絶ギタリストの洪栄龍さんだったのだ。

 

洪栄龍さんのライブへ。ジョンソン・カフェ稲荷山で狭山アメリカ村の歴史を見つける

 

 そんな洪さんが、ある場所を私にそっと教えてくれた。

 「あのハイドパークではない〝本当の稲荷山公園〟があるのを知っていますか? 昔は芸者さんがお花見をしたり、地元の人々に愛されている場所。とにかくそこからの眺めはとっておきだから、ぜひ見て帰るといいですよ」

  いざ〝本当の稲荷山公園〟へ。

 そこからの眺めに、思わず私は言葉を失った。

 黙りこくった夕暮れの川沿いの町並み。

 硝子色の空に吸い込まれてゆくよう、ただただ溢れる涙。

 『ここはどこなのか

 どうでもいいことさ

 どうやってきたのか

 忘れられるかな』

        (細野晴臣「恋は桃色」より)

  細野晴臣さんが狭山アメリカ村に暮らしていた73年に出したアルバム『HOSONOHOUSE』。そこに収められたこの曲の歌詞は、ここの風景にぴったりだった。

 

 狭山に馴染めず、「ここ」ではない「どこか」へ出ていった娘に、父は最後にこの風景を見せたかったのかもしれない。

 しかも、その風景は父の故郷にちょっと似ていた。

 自分が骨を埋めたこの狭山が、今の父の故郷なのだ。

 

  「あっちはダメだ」と米軍基地内のハウスに行くことをとがめた父が、最後にたどり着いた狭山。

 そこにある土の香り。

 硝子色から鼠色の空へと変わる裏寂しい川沿いの街。

 雲の切れ間から父がこっちを覗き見て「おうちにおかえり」と、そんな声が聞こえてきそうな。過ぎゆく夕焼けが頰を赤く染める、それでちょっと救われる気持ち。

 

基地のフェンスと稲荷山公園からの眺め

 

 ディペンデントハウス(扶養家族の家)と呼ばれる米軍ハウス。それは、米軍の家族が本国から離れても寂しくないように作られた束の間の〈HOME〉だったのかもしれない。 

 永遠じゃない魅力。

 朽ちてゆくものへの偏愛。 

 それは滅びの美学かもしれない。

 日米の歴史に生まれた「負」ではない「文化」を残す遺産。

 猫に誘われて最後にたどり着いたハウス。

 ハウスにこだわり、共に呼吸するように暮らすひとびと 。

 彼らの故郷もここではないだろうが、

  確かにそこも〈HOME〉だった。

  魔法の国に迷い込んだようなハウスを巡る冒険。

 靴の踵を3回鳴らし、私は自分の〈HOME〉に帰りたくなった。(女優・洞口 依子)