天覧試合で村山実とバッテリーを組んだ阪神の名捕手 山本哲也氏が85歳で死去

山本哲也氏の通算成績

オールスター出場2回、村山、小山ら昭和中期の阪神投手陣を支える

 村山実、小山正明の2大エースら昭和中期の阪神投手陣を支えてきた名捕手、山本哲也氏が10月13日に死去した。85歳だった。

 山本氏は1934年9月26日生まれ。野村克也、長嶋茂雄らの世代の1学年上にあたる。8歳下の弟は阪急ブレーブスで「走りのプロ」として活躍、盗塁王も獲得した山本公士氏(以下敬称略)。

 熊本工から1953年に大阪タイガースに入団(1960年に阪神タイガースに改称)。当時、大阪には主軸打者として熊本工出身の後藤次男が在籍していた。後藤は熊本工の左腕、山部儒也を高く評価。球団に獲得を進言する。阪神フロントが山部獲得のため熊本に赴いて説得したところ、山部が「(相棒捕手の)山本と一緒なら入団する」と言ったことから、山本哲也もタイガースに入団することとなった。しかし山部は1軍で投げることなく3年で退団。抱き合わせで入団した山本が主力選手に成長することになった。

 入団時の正捕手は徳網茂。続いて石垣一夫が正捕手になったが、1957年に山本が正捕手に抜擢される。翌1958年、タイガース草創期の名捕手で日系二世の田中義雄(カイザー田中)監督が就任すると、リードと守備に秀でた山本を重用した。

 1959年6月25日、後楽園球場で行われた天覧試合では小山正明、村山実という2大エースの球を受ける。球史に残る長嶋茂雄の「天覧サヨナラホームラン」を山本は真後ろからマスク越しに見ることになった。打たれた村山実は「ファウルだった」と主張したが、小山正明は「(捕手の)山本哲也が抗議していなかったから、ホームランなんだろう」と語っている。

 1958、59年と山本はオールスターに選出され、1959年の第2戦では安打を放っている。

 山本は1962年には戸梶正夫と併用され、翌年には控えに回り、1964年限りで引退した。30歳だった。

 タイガースの球史を書いた初代主将の松木謙治郎は、石垣一夫と山本哲也という2人の捕手を比較して「石垣の方が打撃はいい。将棋が強いなど勝負師の勘はあったが、孤独が好きな点がマイナス。山本は(170センチ64キロと小柄で)体力の関係で打力不足ではあったがファイトにあふれ、投手の良き女房役だった」と評している。

 通算成績は、854試合1655打数341安打12本塁打109打点、打率.206。オールスター出場2回。引退後は、阪神のコーチ、スカウトなどを歴任。1995年まで阪神の一員としてチームに貢献したのち、故郷熊本に戻った。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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