【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.198

▲初代山口県令中野梧一の墓(本町)

(10月16日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

降伏

 その頃、益次郎は、蝦夷地の戦略について次のように考えていた。

 「この冬に向かって寒い土地に行っては、とても仕事がやりにくかろう。厳寒中この方から戦をしに行くのはいかにも不利である。そこで向こうはどういう事をしようとも、今何事も心配するには及ばぬ。箱館の追討ということは、来春になって行くのが得策で、この方の行動が自由になるまで待たなければいかぬ。陸軍は青森の方で冬籠りをなし、海軍もその間に軍艦を修繕して軍備につけて何もすっかり整頓するようにするがよい。陸軍も海軍も皆この間で年越しするがよい」

 5月10日、東征軍は11日より、五稜郭と箱館市中を総攻撃することを決めた。

 一方、その情報を知った榎本武揚らは、松前奉行であった遊撃隊の人見勝太郎、益次郎と同じ適塾出身の大鳥圭介らとともに、箱館の妓楼、武蔵野楼で別杯を交わしていた。

 11日、東征軍は箱館を占領。旧幕府軍の土方歳三は壮烈な最期を遂げた。こうして、18日、武揚らは降伏した。

 この時、旧幕府軍の中には、初代山口県令となった斎藤辰吉、後の中野梧一の姿もあった。

(続く。次回は10月30日付に掲載します)

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