支配下→育成→支配下 “不死鳥”のごとく復活を遂げた選手は?

ロッテのチェン・グァンユウ【写真:荒川祐史】

中村紀洋氏は2007年2月に中日と育成契約→同年の日本シリーズでMVP獲得

 レギュラーシーズンが終了し、今季も多くの選手が球界を去る季節が訪れた。その一方で、支配下から育成契約への移行を打診され、契約を切り替える選手も存在する。ケガや手術の影響でリハビリに時間がかかる場合や、支配下登録の枠に余裕を持たせる場合など、その理由はさまざまだが、そこから再度チャンスをつかみ、支配下登録を勝ち取って1軍の戦力として活躍した選手は数多くいる。

 今回はドラフトで支配下選手として指名されながら、育成契約への切り替えを経験した後に、支配下へ返り咲いて1軍で存在感を示した選手を紹介。苦境を乗り越えた選手の諦めない姿勢を振り返っていきたい。

○中村紀洋氏(近鉄、オリックス、中日、楽天、DeNA)

 中村氏は、支配下から育成契約に切り替わり、そこから這い上がって復活を果たした最初の選手といえる。近鉄の主砲として本塁打王を1度、打点王を2度獲得。2000年シドニー五輪日本代表や大リーグでのプレーも経験するなど球界を代表するスター選手だった。

 2006年オフにオリックスを自由契約になると、年内に移籍先は見つからず、翌07年2月末に中日と育成契約を結んだ。近鉄時代は代名詞の豪快なフルスイングで活躍したが、中日では背番号3桁からのスタートに。それでもアピールを続け、3月には支配下登録を勝ち取る。シーズンに入ってからは三塁手のレギュラーとして打率.293、20本塁打をマークし、規定打席にも到達。クライマックスシリーズを勝ち抜いて臨んだ日本ハムとの日本シリーズではチームを日本一へと導く活躍を見せ、シリーズMVPに輝いた。

○チェン・ウェイン投手(元中日、オリオールズ、現マーリンズ)

 先述の中村氏と中日時代の同僚でもあるチェン・ウェインも育成契約を経て躍進を果たした。台湾出身のチェンは2004年に19歳で中日に入団し、翌05年には10試合に登板してプロ初セーブも記録。しかし、06年に負った大ケガの影響で長期離脱を強いられ、07年は育成契約という立場でリハビリに励んだ。ケガが癒えた08年に支配下に復帰すると、先発・中継ぎの双方で活躍。39試合で7勝6敗12ホールド、防御率2.90とブレークした。

 09年には先発としてさらなる進化を遂げ、防御率1.54で最優秀防御率を獲得。10年には初の2桁勝利となる13勝(10敗)を挙げ、防御率も2.87。11年も8勝ながら防御率2.68と安定した投球を続け、同年オフに米球界へ挑戦した。新天地のオリオールズでも主力投手として4シーズンで46勝を挙げ、実力を証明してみせた。

○チェン・グァンユウ投手(前DeNA、現ロッテ)

 チェン・ウェイン投手と同姓で同じ台湾出身、同じ左腕のチェン・グァンユウも来日後に育成契約を経験した。台湾の大学から2011年に横浜(現DeNA)に入団するも、12年に育成選手に。同年8月にはトミー・ジョン手術も受けたが、14年に支配下登録へ返り咲く。しかし、1軍では1試合の登板で防御率11.57と振るわず、同年オフに自由契約となった。
 
 それでも、ロッテのテストに合格して入団すると、15年は14試合で5勝4敗、防御率3.23と先発として存在感を発揮。その後も貴重な左腕として毎年1軍での登板機会を得て、17年からは主にリリーフとして活躍する。今季は自己最多の44試合に登板。さまざまな起用に応え、防御率3.63とキャリアハイの1年を過ごした。

“松坂世代”の久保裕也は2度の自由契約を経て、育成契約から這い上がって今季も22試合登板

○柳瀬明宏氏(ソフトバンク、阪神)

 龍谷大から2006年にプロ入りした柳瀬氏は、1年目からリリーフとして10試合に登板。プレーオフでは2勝を挙げた。2年目の07年には44試合に登板して4勝1敗、9ホールド、2セーブ、防御率3.33と奮闘。08年も30試合登板と1軍で実績を積んだが、09年は3試合登板に終わると、10年にはトミー・ジョン手術を受けることに。同年オフに育成契約へ移行した。

 その後、12年に支配下登録を勝ち取り、35試合で15ホールド、防御率1.63と活躍した。13年には44試合で防御率1.52、14年は40試合で防御率2.67と安定した投球を続け、強力ブルペンの一角としてリーグ優勝と日本一にも貢献した。

○近藤一樹投手(元近鉄、オリックス、現ヤクルト)

 日大三高で2001年夏の甲子園の優勝投手となり、オリックス時代の2008年には10勝をマーク。翌09年も9勝を挙げたが、11年から4年連続で右肘を手術するなど相次ぐ故障にも悩まされて登板機会は激減。14年オフにリハビリのため育成契約になった。15年4月末に支配下に復帰するが成績は上がらず、16年7月にトレードでヤクルトへの移籍が決まった。

 このトレードが転機になった。リリーフに転向し、17年は防御率4.72ながら54試合登板で14ホールド。18年には球団史上最多タイの74試合登板で7勝4敗、35ホールド。2セーブと活躍し、自身初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手に輝いた。

○久保裕也投手(元巨人、DeNA、現楽天)

 2003年に巨人に入団し、長年主力投手として活躍。11年にはクローザーとして20セーブ、防御率1.17と活躍した。しかし、股関節やトミー・ジョン手術を行った影響で12年はわずか2試合、13年は登板機会がなかった。14年には48試合登板も15年は登板機会がなく自由契約に。16年はDeNAと契約するも9試合登板にとどまり、2年連続で自由契約となった。同年のオフに楽天と契約し、17年には27試合登板で防御率3.60の成績を残した。しかしシーズン終盤に血行障害を発症し、オフにはリハビリのために育成契約になった。

 それでも気持ちを折ることなく再起し、18年5月に支配下登録されると25試合登板、防御率1.71の活躍。今季も22試合で防御率2.82と奮闘し、通算500試合登板を達成するなど存在感を示している。

阪神原口は入団4年目から3年間育成契約、今年は大腸癌から復活を遂げる

○原口文仁捕手(阪神)

 2009年ドラフト6位で阪神入団も、1軍出場のないまま12年オフに育成選手契約に移行。16年4月末に支配下へ復帰した。この年に1軍デビューを果たし、107試合で打率.299、11本塁打と活躍。捕手ながら優れた打撃成績を残し、オールスターにも出場を果たした。

 昨年は代打率.404をマーク。シーズン通算でも82試合で打率.315と活躍したが、今年1月に大腸癌であることを公表した。闘病を経て6月に1軍復帰し、43試合で打率.276と再び活躍を見せる。自身2度目の出場となったオールスターでも2打席連続本塁打を放って復活をアピール。大病を乗り越えて奮闘を続ける姿は、ファンの胸を打った。

 育成から支配下に返り咲いた選手は他にもいる。昨年8年に月間最多タイの18試合に登板した山田修義投手(オリックス)は14年にトミー・ジョン手術を受けて育成契約。今季は自己最多の40試合に登板して防御率3.56と、貴重な左のリリーフとして活躍した。

 最速158キロ左腕として将来を嘱望されながら、相次ぐ怪我に苦しめられた川原弘之投手(福岡ソフトバンク)は2016年から今年3月末まで育成選手だった。開幕前に4年ぶりに支配下登録され、19試合で防御率2.66。ブレークへの足掛かりをつかんだ。

 石橋良太投手(楽天)は2017年オフに支配下から育成契約になったが、昨季途中に支配下に復帰した。今季はリリーフとして開幕から1軍に帯同し、シーズン途中には先発ローテーションの一角に定着。28試合で8勝7敗、防御率3.82と活躍し、チームのAクラス入りに貢献した。

 以上のように、支配下登録を外れてもその後に復活した選手は多数いる。このオフも支配下から育成契約に移行する選手はいるだろうが、後に躍進を遂げる選手が数多く出てくることを願いたい。(「パ・リーグ インサイト」望月遼太)

(記事提供:パ・リーグ インサイト)

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