「安楽死」宣言実行、マリーケさんが問いかけたもの 「利己的」? それとも「寿命の全う」? パラ五輪メダリストの選択

By 佐々木田鶴

レース後にマリーケに駆け寄るゼン。労っているように見える(C)Eddy Peeters

 パラリンピックで金を含む四つのメダルを獲得したベルギーの元車いす陸上選手マリーケ・フェルフールトさんが10月22日、夜8時15分、最愛の家族、介助犬、親友らに暖かく見送られて、「宣言通り」の最後を遂げた。享年40歳。

 「宣言通り」とは何か。マリーケさんは出場した2016年のパラリンピック・リオデジャネイロ大会で口にした「安楽死宣言」を現実のものとしたのだ。もちろん、簡単に宣言したわけではない。マリーケさんは脊髄の病で下半身不随になったものの、車いす陸上競技に挑戦。パラ五輪のメダリストにまでなった。ところが、病状は確実に悪化し、「拷問」と表現するほどの耐え難い激痛は強力な鎮痛剤でも制御できないほどまでに。そこで、ベルギーでは緩和治療の一環として合法化されている「安楽死」を選択したのだ。

 「夢」を書き連ねた「やりたいことリスト」を作り、着々と実現していった。その中に挙げられていた日本への旅行を手助けしたことをきっかけに、筆者にとって大切な友人の一人となった。―ここからは、いつものように親しみを込めて「マリーケ」と呼ぶことを許していただきたい―近年はモルヒネを始めとする強力な鎮痛剤を片時も切らせることができないほどの激痛にさいなまれながら、それでも次々と「夢」を作り出しては「(夢がもたらす)脳内アドレナリンであるから生きていられるの」と笑ったマリーケ。

 「『安楽死』という方法がなかったら、とっくの昔に痛みに耐えかねて自殺していたと思う。安楽死という選択肢を得たからこそ、生きる力が湧いてくるのよ」

 まだまだ「安楽死」に対して賛同と疑問、そして批判がある世界のメディアや人々に対して、そう訴え続けたマリーケをこの一文をもって弔いたい。

 そして、願わくば「安楽死」という寿命の遂げ方があることを自らの身をもって示してくれたマリーケの思いを理解してもらえんことを。

▼病名すらない

 「マリーケの病名は何というの?」。日本旅行にも付き添った親友で看護師のアンに尋ねたことがある。すると、少し困ったように「筋力が徐々に衰える進行性の脊椎疾患。でも、病名はつかないのよ」と教えてくれた。

 発病したのは10代半ば。下半身不随となることで多くを失ったマリーケだったが、「夢」を持つことは絶対に諦めなかった。まずは車いすトライアスロンに挑戦。その後、車いす陸上に転向すると、パラ五輪出場を目標に猛烈なトレーニングに励んだ。ここで、「夢」を設定し、その後は実現に向かって懸命に頑張るマリーケの生きざまができあがった。そして、ロンドン大会で金メダルと銀メダル、リオ大会でも銀メダルと銅メダルに輝いた。

 リオ大会での安楽死宣言で世界中からの注目を浴びてしまったが、マリーケは「すぐに安楽死を実行する」と言ったわけではなかった。「すでに、安楽死に必要な準備を済ませているので、『自分の命の操縦かんを握っているのは病気ではなく自分自身』なのだ」ということをはっきりと伝えたかっただけなのだ。

▼究極の「夢」

 いわゆる「安楽死」は現在、一部の国や自治体などで合法化されている。だが、それぞれの「安楽死」には手続きや基準などの点で違いがある。ベルギーでは次の通り。(1)居住する自治体に自身の意思を前もって登録する(2)顔見知りなどではない中立な立場にいる精神科を含む医師が医療の力では治癒の見込みがなく、肉体的・精神的に耐え難い苦痛にさいなまれていると認定する―。実施する際には、「医師の手」で致死量の薬物を投与するなどして死に導くが、医師が法的に問われることは当然ない。つまり、「最後」を引き受ける医師が必要なのだ。この点で、患者が致死薬の入った点滴のストッパーを解除する方法が一般的なスイスとは違う。これは「自殺ほう助」と見なされている。

 激痛がさらに厳しさを増すだけでなく、その間隔が短くなっていることにおびえていたマリーケは、ブリュッセル自由大の大学病院で緩和治療を受けることになる。そして、ここで一人の信頼できる医師に出会う。ウィム・ディステルマンス氏だ。彼のアドバイスで、自分が望めば、この耐え難い激痛から解放されるのだという究極の「夢」を手に入れたのだ。

 「そうでなければ、とっくに激痛で発狂して自殺してしまっていたからね」

 どうやっても消えてくれない痛みに苦しんでいることを忘れさせてくれるほどの笑顔で、マリーケが当時を振り返った。安楽死の意思を登録し準備を整えることを通じて、マリーケは逆説的ではあるものの「生きる力」を得たのだ。

 それでも痛みという現実からは逃げられない。

 「痛みが始まると絶叫してのたうち回るから、居合わせた人はほぼ言葉を失ってしまうのよ。そして、鎮痛剤で三日三晩眠り続けた後は、血だらけなの。床擦れがひどいからね。この間から、鎮痛剤を入れるカテーテルの回りがうんで40度以上の高熱が続くし、何を食べてももどしちゃうから歯が胃液でボロボロになってしまった。この前、車いすから顔から落ちたときに歯が折れちゃったのに痛みすら感じないのよ」

 想像を絶するそんな壮絶な事実を、マリーケは人ごとのようにさらりと教えてくれた。

日本ではさまざまな場所を訪れた。広島・厳島神社の鳥居を前に嬉しそうなマリーケ(左)と同行した看護師のアン(C)Marieke

▼「夢」そして「夢」

 日本旅行を始めとする、「夢」を次々と作りだしたマリーケ。そして、最後まで〝力強く〟生き抜いて、それらの「夢」を一つ一つかなえていった。多くの人がその姿に魅せられ、マリーケの大ファンになっていった。

 筆者もそんな一人だ。知り合ったのは17年初め。先述したように、日本旅行の準備を手伝ったのがきっかけだった。介助犬に「ゼン(禅)」と名付けたように、マリーケは日本への強い憧れを抱いていた。とはいえ、旅行には賛成できなかった。元車いす陸上選手とはいえ、重い酸素吸引器を抱えながら車いすで移動するのはただでさえ難しいというのに、土地勘の全くない日本を鉄道やバスなどで縦断するというのだ。「どう考えてもむちゃだよ」。周囲がどれだけ反対しても、公共交通機関の利用をあきらめて専用車を使うようにどんなに説得しても、一歩も譲ることなかったマリーケは17年5月、その夢を実現させて元気に帰国した。

 「やりたいことはまだまだあるのよ。自叙伝の最後は日本の思い出にしたいし、自分の生きざまを展示する小さなミュージアムを作って、障害や病気を持つ若者や子どもを勇気づけたいとも思っているし…」

 長旅の疲れで参っているにもかかわらず、さらなる「夢」を口にするマリーケの目は輝いていた。

 17年秋には、「やりたいリスト」に書き込んだ自叙伝が完成。ますます激しくなる痛みに、鎮痛剤も効かなくなりつつあった。それでも、出版記者会見という晴れの舞台をマリーケはシャキっとこなしてみせた。しかし、それは気力を振り絞ってのものだった。「Yes、You can!(なせば成る!)」。会見後、来場した一人一人の本に丁寧にそう書き込むマリーケの足はてんかんの発作でぶるぶると震えていた。

 そのころのマリーケは室内スカイダイビングにも挑んでいた。「足がこんがらがって、どうにもならないのよ」と笑いこけるマリーケ。動かない足ごと宙に浮かべて、風に任せて悠々と浮遊する快感―。同じように車いすで生活する若い障害者にも同じ感動を味わってほしいと考えたマリーケは室内スカイダイビング体験をプレゼントするための基金を設立した。

 18年に入ると、マリーケの「その時」が近づいて来る気配を周囲の誰もがはっきり感じ始めた。入院が長引いているマリーケを病室に訪ねると、「その時にはね、パーティーを開くの。呼んでほしい?」と問われ、返す言葉に戸惑ってしまった。ところが、次の瞬間。ひっくり返るようなことを口にした。「新しく子犬を飼おうと思う。ゼンも家族が必要だからね」。矛盾する言動からは、「死」と「生」の間で心が激しく揺れているのがひしと感じられた。

 4月終わりには言葉通り、茶色のラブラドルの子犬を手に入れて「マーゼル」と名付けた。意味はマリーケの母語であるオランダ語で「幸運」。子犬の愛くるしい姿に一喜一憂しながら、5月にはミュージアムをオープンさせ、「やりたいことリスト」をまた一つ減らした。競技での活躍を伝える数々の写真やメダル、トロフィーに始まり、ユニホームや競技用車いす、さらには新聞や雑誌の記事…。栄光にあふれた生涯を展示するミュージアムのオープニングに、ゼンと小さなマーゼルと一緒に参加したマリーケは力強くこう〝叫んだ〟。

 「障害がある若者に勇気をもってほしい。Yes、You can!」。

室内スカイダイビングを楽しむマリーケ(上)(C)Marieke

▼迫る「その時」

 マリーケの周りの人間は知っていた。「やりたいことリスト」から「夢」がなくなっていることを。

 「バーベキューパーティーは夏前にしてよ。『その時』はもうすぐだから」。マリーケが筆者にそんな言葉を掛けてきたのは、40歳の誕生日を迎えた今年5月のことだった。それを見ていたマリーケの父親が悲しげにこう絞り出した。「マリーケはもう以前のマリーケではないんだよ。分かっているよね」と。

 夏が終わるころには、「その時」が間近であるのが筆者にもはっきりと感じられるようになった。それでも、マリーケは変わらない。9月には「12日に(スーパーカーの)ランボルギーニに乗るから。メディア大歓迎、絶対来てね!」とまたもや突拍子もないことを口にした。それは「夢」を持つこと、そして実現することを支えに生き抜いてきたマリーケらしい言葉だった。だが、体は正直だ。激痛から、食べたものは胃袋に収まらなかった結果、マリーケはげっそりと痩せ、顔色は青ざめた、車いすにまっすぐ座っている力さえなくなっていった。

 それでも、ランボルギーニに乗るという。実行の日は朝からサーキット場には多くの報道関係者がつめかけたが、心配は尽きない。あんな状態で、本当にマリーケは現れるのか。すると、彼女は満面の笑みでさっそうと登場した。その日の夜、行われたテレビのスタジオ収録にも出演。痛みで血の気が引き、疲れがにじみ出て今にも気を失いそうに見えながらも、最後まで踏ん張った。「大丈夫、マリーケは自分で決めた晴れ舞台では必ずシャキッとこなしてきたのだから」という父親の言葉のままに。

 そんな9月末、マリーケの妹に初めての赤ちゃんが生まれた。小さなリュックに入れたベビー用の運動靴を愛しそうにいじりながら、マリーケがぽつりとつぶやいた。

 「一人生まれ、一人去る…」

▼否定からは生まれない

 マリーケは最後までメディアの取材を喜んで受け入れた。そして、「安楽死によって生きる力を得た。最後の最後まで生きることを楽しむために」と力強く語り続け、活動で集めた資金で同じように障害がある人を支える仕組みを次々と作っていった。

 ベルギーで、「安楽死」が合法化された2002年からすでに17年。毎年約2000人が「安楽死」で最後を迎えている。周囲でも「安楽死」で見送った話がそこここで聞かれる。そう、ベルギーにおいて「安楽死」は特別な出来事ではないのだ。

 だから、マリーケの安楽死についてベルギー中のメディアが好意的に伝え、同国のパラリンピック協会や王室までもが追悼メッセージを送った。その内容は生きざまをたたえるもので「安楽死」の是非を問うものはない。障害や病気を持つ弱者の命を軽視しかねないと懸念される声が上がることもない。だが、「安楽死」に否定的な声が封殺されているわけではない。死に関する多様性を認めようという国民的な合意が出来上がっているのだ。

 筆者も同じ考えを採る。他者の意見を否定するところからは、多様性は生まれてこない。マリーケの選択が、相手の考えに思いをはせ、理解しようとする一歩になってもらえたら…。そう願ってやまない。

 「安楽死」を語るのは難しい。だが、マリーケ自身は喜々として自ら操縦かんを握り、「夢」をかなえながら前向きに生き抜いた。愛する人々や愛犬に丁寧に別れを告げながら、皆が「その時」を受け入れられるように十分な時間をかけて。それは、自分のことしか考えない「利己的な死」ではなく、「寿命を全うした」と筆者には感じられる。普通なら、死は悲しむべきだ。それでも、マリーケに筆者は喝采を送り続けたい。(ブリュッセル在住ジャーナリスト、佐々木田鶴=共同通信特約)

ゼンとマーゼル(左)もマリーケに生きる力を注ぎ続けてくれた(C)Eddy Peeters

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