被爆地とカトリック 法王来崎を前に(1) 【如己愛人】博士の教え 胸に刻む

被爆して頭部を負傷した永井隆博士(左)と家族、第11医療隊の隊員ら=1945年10月(長崎市永井隆記念館提供)

 医師は原爆に遭い、こめかみの動脈を切っていた。頭に包帯を巻いた痛々しい姿で、つえを突きながら家々を回り、負傷した被爆者を治療した。当時15歳の看護学生、椿山政子さん(89)=熊本県天草市=は小柄な体で、よろよろと歩く医師を懸命に支えていた。

永井隆博士について振り返る椿山政子さん=熊本県天草市

 医師は後に「浦上の聖者」と呼ばれた永井隆博士(1908~51年)。当時、長崎医科大付属医院物理的療法科(現長崎大学病院放射線科)の部長だった。
 1945年8月9日午前11時2分。椿山さんが付属医院の地下室(爆心地から700メートル)で患者用の薬を準備していた時、原爆がさく裂した。コンクリートの天井が落ちてきたが、とっさにテーブル代わりの卓球台の下に潜り込んでいて、難を逃れた。
 病院にいた永井博士は火の勢いが増す中、負傷者救出の指揮を執った。椿山さんらは患者を病院裏の畑へ移すなど奔走した。椿山さんは「先生の顔は血まみれだった」と回想する。「見る人見る人皆血だらけ。無我夢中だった。先生はあの状態でよく指示を出せたと思う」
 12日、博士を隊長とする第11医療隊は長崎市三ツ山地区に救護所を構え、以後約2カ月間にわたり巡回診療に当たった。椿山さんは12人の隊員のうち、今では数少ない生存者だ。
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 永井博士は長崎医科大進学に伴い出身地の島根県から長崎へ移住した。母の死などを機に信仰に目覚めたとされ、34年にカトリックの洗礼を受けて浦上の信徒と結婚した。原爆投下の直前に白血病で余命3年と宣告され、終戦後は病床に伏して死去までに多数の著書を残した。平和を訴え、被爆地の復興に尽くした。
 博士は元気なころ、椿山さんを「豆ちゃん」と呼び、食べ物を分けるなどしてかわいがった。一方で「先生は軍医経験もあったからか、厳しかった」と椿山さんは言う。
 ある時、若い患者を診察した博士は「においがする。貴様たばこを持っているな」と怒って小突いた。椿山さんは「相手を思ってのことだろうが、そこまでしなくても」と思った。博士は原爆で妻を失っていたため、娘が小学校へ進む際に椿山さんが世話を焼こうとすると、博士は「これからは何でも自分たちでしないといけない。何もするな」と厳しい口調で遮った。
 博士は常々、講義などで「己の如く人を愛せよ」と教えた。博士が晩年を過ごした「如己堂」の由来となった聖書の言葉だ。椿山さんは終戦後、故郷の天草に帰り、70歳すぎまで看護師や助産師として働き続けた。自身はカトリックではないが、博士の教えを胸に刻み、人の苦しみや喜びと向き合ってきた。
 博士の生前の言動は、あつい信仰に根差していたと語る長崎の信者は多い。ただ、原爆を「神の摂理」と言った博士の認識は、後に論争を招くことになる。

【連載】被爆地とカトリック 法王来崎を前に

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