被爆地とカトリック 法王来崎を前に(2) 【神の摂理】「被爆」受け入れる信仰

1945年11月に浦上天主堂跡で営まれた合同慰霊祭の様子を載せた絵はがき(長崎原爆資料館提供)

 長崎原爆では、浦上のカトリック信者1万2千人のうち8千人以上が犠牲になったといわれる。1945年11月23日、崩壊した浦上天主堂跡で合同慰霊祭が営まれた。
 信徒代表で弔辞を読んだのは永井隆博士だった。原爆投下を巡り「神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来らされた」「世界大戦争という人類の罪悪の償い」と表現。尊い犠牲の上に平和がもたらされたとして神に感謝した。
 弔辞は博士の著書「長崎の鐘」に掲載され、死後、論争を呼んだ。一部の文学者や識者は、原爆を摂理とすれば日本の戦争責任や米国の投下責任を免責し、原爆の肯定にもつながると批判した。一方、カトリック界からは博士の深い信仰心の表れで、信者を励ます意味もあったと擁護する意見が出ている。

「被爆して人の苦しみに寄り添えるようになった」と語る林田健治さん=長崎市油木町

 長崎市油木町の信徒、林田健治さん(81)は、つらい被爆体験を「信仰によって受け入れないといけない」と考えて生きてきた。
 7歳のとき、爆心地から2キロの本原町3丁目(当時)の知人宅で被爆した。一緒に遊んでいたいとこは数日後に亡くなり、より爆心地に近い自宅などにいた兄2人と母も失った。
 林田さんは右半身の頭、手、足に大やけどを負い、半年ほど満足に歩けなかった。傷痕は今も残り、30代後半までは外出時に帽子をかぶり、夏でも長ズボンをはいてそれを隠していた。
 「神様は本当にいるのか」と考えたこともあるが、教会との関わりや結婚、子どもの誕生を支えに「原爆で失った家族の分も生きよう」「苦しむ人に寄り添おう」と思うようになった。80年代以降はハンセン病患者との交流や、フィリピンの貧しい若者に奨学金を送る活動も続けてきた。
 20代後半のころだ。勤務先の労働組合から依頼され、原爆について機関紙へ寄稿した。「被爆して人の苦しみが分かるようになり、結果的に良かった」とつづった文章は「原爆を肯定するのか」と思いがけない批判を受けた。「原爆は憎むべきだが、その前に戦争を起こす愚かさをなくすべきだ」と林田さんは言う。
 「神の摂理」の真意はともかく、「長崎を最後の被爆地に」という願いは永井博士を含む多くの被爆者に共通する。1981年にローマ法王として初来日したヨハネ・パウロ2世のメッセージは明快そのものだった。

【連載】被爆地とカトリック 法王来崎を前に

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