【明治維新鴻業の発祥地、山口 今年は大村益次郎遭難から150年】 No.200

▲益次郎夫妻住居跡周辺の様子(山口市鋳銭司)

(10月30日付・松前了嗣さん寄稿の続き)

妻への手紙

 1869(明治2)年5月28日、益次郎は、郷里に住む妻・琴に次の手紙を書いた。

 「その後、御地皆々様御無事のよし、目出度存候。函だての戦そう茂、今月八日より相初り、いまだかた付かず、近之内勝利相成候はば、帰国可致筈に付、六月の朔日よりこゝえ発足致し、七月中頃にはかならず帰国の積りに候。若殿様茂御着後、御機嫌克珍重に存候。櫻井愼平茂、此間奥羽仙台まで被参、今日帰り申候間、序の節無事の事を名田島へ御申越可被成候。(中略)尚々、高の子其外へよろしく御申被下度候」  7月中旬には必ず帰国したい。だが、そんな益次郎の思いは、叶うことはなかった。

 その後も、彼の多忙な日々は続いた。    

永世録

 6月2日、戊辰戦争の戦功褒賞が行われ、益次郎は朝廷より永世録1500石を拝賜した。

 この時、長州藩では、山縣有朋と前原一誠に600石が下賜された。

 9月14日の箱館征討の戦功褒賞では、山田顕義が600石。9月26日、王政復古の功臣の褒賞では、木戸孝允、廣澤眞臣に1800石が下賜された。

(続く。次回は11月13日付に掲載します)

© 株式会社サンデー山口