麥田俊一の偏愛的モード私観 第10話「マトフ」

2020年春夏コレクション

 気振りとか、気配と云うときの「け」とは何であろうか。あるが如くにして、定かならざることを「気」と云う。感覚によって漠然と捉えられる物事の様子が、即ち、気配と云うことになろう。それを素早く捉えるには、鋭い感覚の持ち主でなければならないのだが、然りとて私は、特段、人より敏な感覚を備えているわけではない。だけれども、少しく風変わりな嗅覚、とりわけ、自分の仕事の領域に於いては、自身の触角を、自ら恃むところとしてきた。即ち、ファッションデザイナーが作品に添える主題に屡々共鳴することは勿論だが、それよりも、もそっと枝葉末節の、皮膚感覚に近い部分での共鳴を、私は大切にしている。とは云え、結局は、思慮深い作り手が差し出す主題と枝葉末節は、実は、等価であると云う事実を再認識することになるのだけれど。時代時代の周波数に闇雲にダイアルを合わせるよりは、たとい、電波は弱くても、面白いと感じる局のそれを探す努力の方が、私の性に合っている。クールではなく面白い、と云える服が好きだ。

 その夜、私は「マトフ」の路面店を目指していた。今にも雨粒が落ちてきそうな、暮れかかる空が重苦しい。一本横道に逸れただけで、東京・表参道の喧騒も聴こえないほど、あたりは静まり返っていた。そんな折、何某かの気配を感じた私は、知らず知らずのうちに歩を速めていた。

 10月14日より始まった東京のファッションウイークの前週、「マトフ」は2020年春夏コレクションを表参道の路面店にて発表した。これまで続けてきたファッションショーではない。モデル数名を使ったプレゼンテーションと、その製作過程に纏わる10分足らずの映像を見せると云う趣向は、今回で3回目。映像は、伝統工芸が生み出される現場を彼等自身が訪れ、創作の下敷きとなる雄大な自然の景色や素朴な風土を、作り手が五感で受け止めると云うロードムービーの体裁だ。堀畑裕之と関口真希子は、2005~06年秋冬シーズンより「マトフ」を立ち上げ、翌秋冬シーズンよりショーを開始。連作「日本の眼」と題して、8年間で17を数える主題をショー形式で展開してきたが、新たな連作「手のひらの旅」を打ち出すと同時に、プレゼンテーションに新作発表の形式を変えている。

 ブランド名の「マトフ」は「纏う」に由来する。つまり、「身体を包み込むように軽やかに身に纏う服」を目指すと云う意図だが、そこにはもう一つの意味を重ねている。それは「待とう」と云う作り手側の提言。「消費して捨て去るのではなく、自分らしい美意識が成熟するのを待とう」と云うメッセージだ。「日本の美意識が通底する新しい服の創造」をコンセプトに、歴史や文化、風土から生まれるデザインを、日本人に特有の審美眼を通したユニークなスタイルとして提案し続けている。日本の自然が磨いてくれた伝統工芸の素朴さが、服に滋味を与えている。たんに手仕事の素朴さと云うけれど、技も、心も、伝統の束縛にしっかりと縛られて、伝統の水を呑み、伝統の火に焼かれて、鍛錬された表現技巧であるからこそ、時を越えて歳月を生き延びる強靭さとか、鑑賞の眼の風雪にも堪えしのぎ抜く稟性が備わるのだ。

 和洋折衷を自家薬籠中のものとする二人の創作には、常々敬意を払いたいところだが、饒舌なオリジナルな生地が描出する濃密な世界観に、少しく閉塞した嫌いがあったことも屡々。時に息抜きの箇所がまったく見当たらぬ排他的な雰囲気に、見ているこちらが消化不良を起こすほどの満腹感を覚えることもあった。加えて、和を強く意識するあまりだろうか、既視感を拭い去ることの出来ないシーズンも少なくなかった。周囲からも、代わり映えしないとか、予定調和の服とかの声が聞こえたこともある。但し、意匠を凝らした服の幾つかは、工程上、既製服として量産することが難しく、受注生産によるもの。大雑把だが「美術的価値を備えた実用品」と云う意味では「工芸品」の範疇にある作品も少なくない。だが、それは短絡と云うもの。「和」に寄り添う主題を「洋」のベクトルにグイッと向かわせる強かなデザインが頼もしく、特異な美意識に裏打ちされた個性的な視座で、東京発信のエレガンスの規範を広げた功績は大きい。

 デビューより彼等の服を見ていると、二人の服作りの根底に流れる主題は、時間の流れであることに気付かされる。今以て、過去の作品が新鮮である理由も、そこにあるのではないだろうか。現代社会の雰囲気を写すことに専念する「実感」の服作りは、世の中が変われば古くなる。しかし、揺るぎなく美しい筆致で知的に構築された作品は、滅多なことでは磨滅しないし、錆もしない。それらは、時代の流行に向かって開かれていて、随分と風通しがいいものなのだ。

 2020年春夏コレクションの主題は「藍の源流」。ロードムービーは、四国地方の徳島県の各地を巡る様子を映じている。藍染めの原料となる蓼藍(たであい)の畑、染液のもとになる、すくも(藍の葉に水を加えて発酵させた黒褐色の塊)作りの現場、すくもを作る藍師や、すくもを使って藍染めをする染め師、徳島に移住して阿波藍で新しい活動を続ける若手集団等の仕事場を、作り手の二人が訪れ、協業する姿を描いている。

 徳島県は江戸時代、阿波と呼ばれ、すくもの国内最大の生産地として、日本各地の染色文化に貢献した。往時は、絣や絞り、農民の作業着まで、藍染めは日本人の生活に欠かせない存在だった。しかし、石油で精製された科学藍が流行すると、手間の掛かる藍染めは急激に衰退。回復基調にあるとは云え、現在、すくも師は県内に5軒しか残っておらず、蓼藍の畑も少なく、需要に追いついていない状況だと「マトフ」の二人は語る。

 実際の服について触れておく。深い余剰を青のグラデーションに閉じ込めた上衣は、藍に浸ける回数を変える段染めで仕上げた。異なる色に染めた糸で織り上げた、繊細な波動のような柄は、細波のイメージ。四国の中央部を東西に流れる大河、吉野川に想を膨らませたものだ。ろうけつ染めを取り入れた藍染めの長着は、青地に恒星が放つ朧な光の渦のような模様が浮かんでいるが、こうした近未来的な詩味は、若手の職人との協業で生まれた。

 冒頭で気配と云ったのは、「時間」や「記憶」と云う霊感を、私は確かに受けたからだ。今回の作品もまた、無時間の世界である。そこには(無色と云う意味ではない)透明な永遠が息衝いている。それは、流れて行く時間の中の一瞬が定着されるのではなく、無時間と云う一つの状態が、何時までも持続する印象と云っていい。隅々にまで同じ緊張に保たれた作品は、全篇に於いて無時間の世界を濃く感じさせる。更に、風景、風土に根差した色柄も、まさに記憶的であり、実はこうした景色そのものが、随分と人懐こい味にもなっている。(麥田俊一、ファッションジャーナリスト)

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