もうやめよう「共通テスト」 一律の物差しは時代遅れ

By 佐々木央

ことし1月のセンター試験=東京・本郷の東京大学

 厳冬期の2日間 、日本中のあちこちで、受験生に同じ問題を課し、単一の物差しで評価するのは、もうやめにしてはどうだろう。その日、体調の優れない子もいるだろう。北国は猛吹雪かも知れない。ほかの土地にも、その土地なりの困難があるだろう。

 それぞれの大学が、自らの大学を志望してくれる受験生と向き合って、手作りの問題や面接で、学生を選んではどうか。多様性の時代だというなら、多様な学生を受け入れてほしい。できれば無理をしてふるいにかけず、学ぶ意欲のある者に、機会を与えてはくれないか。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央) 

 大学入試をめぐる混乱が続いている。大学入試センター試験に代わる「大学入学共通テスト」(以下「共通テスト」)への英語の民間検定試験導入が見送られた。国語と数学の記述式回答にも疑問の声が高まっている。

 40代以上の人は、この「共通テスト」という言葉に、聞き覚えがあるかもしれない。センター試験の前身は「共通一次」。1979年1月に最初に実施され、89年1月まで続いた。新テストはそれと似通った名前に回帰した。

 共通一次は国公立大限定(産業医科大は例外)とはいえ、国が初めて受験生への統一試験を定着させたという意味で、画期となった。それが名前や内容を変えながら、40年も続いてきた。毎年1月、約50万人を対象に一斉に行われる試験を、私たちは当然のことのように受け止めている。センター試験が終わった後に、形を変えた統一試験が待っていることにも違和感を持たない。

 共通一次の前は、各大学の個別入試であった。それが統一試験になったのはなぜか。

 文部科学省ホームページに「学制百二十年史」があり、小項目の「共通第一次学力試験の導入」に説明がある。抜粋・引用する。

 「入試では、ともすれば一回の学力検査に頼って合否を決定する傾向が見られ、また、各大学が独自に入試を行っていたこともあって(中略)難問・奇問の出題が少なくなかった」「共通第一次学力試験は(中略)基礎的な学習の達成程度を問う良質な問題を確保しつつ、各大学がそれぞれの大学、学部等の特性に応じて行う第二次試験との適切な組合せによって、受験生の能力・適性を多面的・総合的に評価しようとするものであって、一回の学力試験に偏った従来の方法を改め、きめ細かで、丁寧な入試の実現を目指した」

 難問・奇問を排し、基礎的な達成度を良質な問題で確かめる。各大学の二次試験と合わせて能力・適性を多面的・総合的に評価する。最終目標は「きめ細かで、丁寧な入試」である。

 額面通りなら、実に「受験生ファースト」ではないか。いいことずくめのような共通一次はしかし、約10年で終わった。

 「百二十年史」によると、1985年の臨時教育審議会第一次答申が「偏差値偏重による受験競争の過熱を是正するとともに(中略)国公私立を通じて各大学が自由に利用できる新しいテストの創設を提言」、引導を渡された形となった。

 この文の後半の「各大学の自由な利用」は共通一次でも可能なはずだから、前段の「偏差値偏重による受験競争の過熱を是正」こそが、共通一次終了の理由だと分かる。全国統一の試験を実施すれば、その点数に従って全員が輪切りにされる。偏差値による序列化は必然だった。

 このたびの共通テスト移行では「英語の民間試験」と国語・数学の「記述式問題」が大きな改善点とされた。なぜ取り入れたのか。

 文科省が2016年10月に公表した「大学入学共通テスト実施方針策定に当たっての考え方」を参照する。

共通テストへの英語民間試験の導入延期について記者会見する萩生田文科相=1日午前、文科省

 英語の民間試験活用は「グローバル化が急速に進展する中、英語によるコミュニケーション能力の向上が課題」と理由が明記されている。

 記述式については、国語への導入意義のくだりを引く。

 「高等学校学習指導要領が、知識・技能を活用して課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等を育むため国語をはじめとする全教科等において『言語活動』(例:説明、論述、討論等)を充実することを定めている(中略)記述式問題を導入し、より多くの受検者(原文のまま)に課すことで、高等学校に対し、『主体的・対話的で深い学び』に向けた授業改善を促していく大きなメッセージになる」

 頭に入りにくい文章だが、思考力・判断力・表現力を養おうということらしい。AIに代替できないことをできるようにしたいという親心かもしれないが、時流に流された発想にみえなくもない。

 グローバル化にしても、思考力重視にしても、子どもたちに一律に押しつけることではないだろう。ベクトルは共通一次スタートのときと逆転している。少なくとも建前としては「受験生本位」だったのに、国家や企業が望む人材を育てたいという方向に変わった。

 そのニーズを無理やり共通テストに詰め込んだが、英語の民間試験導入は破綻した。国ができないなら民間を使えばいいという発想は安易だった。

 国語や数学の記述式はベネッセグループの企業が採点するという。不定型な答えに対して公平な採点をするには、相当な国語力や数学の力が必要だろう。採点者の確保が懸念される。民間に委ねた場合、問題や解答の秘匿にも不安が残る。

 そもそも50万人の受験生を相手にした一斉テストで、それほど複雑なことができるはずがないのだ。

 障害のある子どもたちや、これからますます増えていくであろう外国につながる子どもたち、地域格差や拡大する一方の貧富の格差も考えれば、統一テストという枠組み自体が限界に来ていることは明らかだと思う。

 一人一人の受験生を大切にし、各大学がそれぞれの判断で、門戸を柔軟に、緩やかに、開いていくことを望みたい。

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