収益倍増、観客数3倍、J2昇格! FC琉球を快進撃に導いた社長はなぜ2年で交代したのか?

2019年9月、2018シーズンにホーム無敗でJ3優勝を飾り、J2昇格を果たしたFC琉球にJ1クラブライセンスが発行された。沖縄初のJ1チームに着実に近づいているFC琉球は同時に、思い切ったクラブ経営体制の変更を行った。クラブ躍進の立役者である倉林啓士郎氏が社長から会長へ、31歳(当時)の三上昴氏が代表取締役社長に就任したのだ。結果を出し続けている今、なぜ社長交代なのか? 倉林、三上両氏に話を聞いた。

(インタビュー=岩本義弘[『REAL SPORTS』編集長]、構成=大塚一樹[『REAL SPORTS』編集部]、写真提供=FC琉球)

救世主・倉林社長就任からの変革 そして今年さらなる変化が

2016年の年末、創設14年目を迎えたFC琉球は大きな転換期を迎えた。2013年に準加盟、翌年にはJリーグに入会したものの、J3中位が定位置となり、1シーズン戦えば1億円赤字と、運営面でも閉塞感のあったクラブの救世主が、SFIDAのブランドで知られる株式会社イミオ代表取締役社長の倉林啓士郎氏だった。

前年までは、クラブのオフィシャルサプライヤーの社長という立場だった倉林氏がFC琉球代表取締役社長に就任し、経営の矢面に立ってからは、2017シーズンにクラブ最高位となるJ3・6位。18シーズンにはホーム無敗でのJ3優勝を果たすなど、圧倒的な結果を残す一方、スポンサー倍増、1年で赤字を半減させるなどJ1昇格を目指す一地方クラブ以上の存在感を示し続けている。

「他の54クラブいろいろなクラブを見てきましたけど、規模でも小さい方なので、自分のリソースを50%しか割けない中でやっていく限りは、当たり前にJ2、J1にいるクラブになっていくには、もう全然足りない」

史上最速ともいわれるスピードでJ1を目指すFC琉球が、新体制を発表したのは今年4月。

「J1ライセンス取得そしてJ1昇格の目標に向けてさらなる経営力強化を図るため」として、6月1日付での倉林代表取締役社長が取締役会長就任、当時31歳だった三上昴取締役が代表取締役社長に昇格、廣﨑圭取締役が代表取締役副社長兼スポーツダイレクターに就任し、2人代表制を敷いたのだ。

「フロントの新体制の構想は2018年の夏くらい、J2昇格の可能性が見えてきたタイミングですでに具体的に考えていました。実は3年目は新しい社長を探すというのはずっと念頭にあったんです」

サッカー界に新風を送り込み、スポーツビジネスの新たな可能性としても注目され始めていた矢先に、わずか2年で社長を退く。驚きを持って迎えられた人事はその実、ここまで結果を残した倉林会長ならではの経営哲学に沿った戦略的な決断だった。

ここからは、自らも東京都リーグ1部に所属するサッカークラブ、南葛SCのGMを務める岩本義弘『REAL SPORTS』編集長のインタビューを中心にお届けする。

経営強化のためにも沖縄に縁、思いのある人に次を託したかった

岩本:今回の決断をお聞きした時、倉林さんはやっぱり「経営者」だなと思ったんです。2年間自分でやってみて、このまま2年続けてガッツリやったら、自分も大変だろうけど、クラブも伸びないなと感じたってことですよね?

倉林:そうですね。2年間社長をやって「命を削られる」思いというのがあって、このまま会社を持ちながら東京と沖縄で“二足のわらじ”でやっていくのは難しい、経営強化のためにも次の社長をと思っていました。

岩本:新しい社長を含めて新体制、経営陣はどんなところにポイントを置いて探したんですか?

倉林:まず、沖縄の人。沖縄に由来がある人で、サッカー、スポーツに対して情熱がある人。それと沖縄に住める人。これがポイントですかね。

岩本:あれ、新社長の三上さんは沖縄出身なんですか?

倉林:三上君は、奥さんが宮古島出身なんですよ。だから沖縄に縁、思いがあるということで、ギリギリセーフですね(笑)。自分より若い人、Jリーグの女性社長はほとんどいないので、20代の女性もいいかなと思っていたんですけど、ドンピシャのタイミングで三上君を紹介されて。僕はJリーグでの会議なんかでも、半分冗談で「次の社長を探しています」みたいなことを公言していたんで、いろいろな人が紹介してくれたんです。

岩本:いいなと思ったのはやっぱり、キャリアですか?

倉林:うーん、いや、正直キャリア自体は、まあ素晴らしいキャリアですけど、やっぱり沖縄に縁があって筑波大学のサッカー部出身でサッカーに対してすごく熱い想いがあって、そこにさらに、ゴールドマン・サックスを辞めてサッカーの仕事をしたいということが重なり合ってということですかね。

岩本:三上さんもサッカーの仕事をしたいというのがあったんですね。

倉林:僕が彼に初めて会ったのはゴールドマン・サックスを辞めた直後だったんですが、Jリーグ、サッカー協会の仕事を探していたみたいなんです。そんなタイミングで出会ったので、「だったら沖縄来たら?」と。彼もいきなり社長を任されるとは思っていなかったと思うんですけど、1、2年伴走して将来的にはそういうポジションを用意できるからとオファーをして、本人も興味を持ってくれたんです。

岩本:それが1、2年伴走どころか、かなり早い段階でってことですよね。

倉林:半年くらい伴走してパスしましたね。

岩本:体制変更に際して、沖縄の人たち、FC琉球に関わっている人たちは、どんなリアクションだったんですか?

倉林:辞める前は「次の人にバトンタッチしようと思っている」と相談しながらやっていたので、騒動とか特になかったですね。「いやいやダメでしょう、あと1年はやってください」とか「倉林が社長じゃないんだったらスポンサーを降りる」みたいな声もなくはなかったんですけど、結果としてはいい形で体制を引き継ぐことができたかなと思います。

岩本:そこは、倉林さんが社長じゃなくなっただけで、オーナーとして、会長として、関わっているからですよね。FC琉球を取り巻く沖縄の人たちにも、「大事な時期だ」という認識はある中で、だからこそ勝負をした、みたいなところなんですか?

倉林:自分的にもちょっと早すぎるかなという思いもありました。J2をもう1年やってみて、少し良い順位で安定する、もしくは会社として黒字化してとか、そういうタイミングでパスしたほうがいいのかなと、常識的に考えるとそうかなとも思ったんですけど、結局それをやると、3年、4年、5年とズルズルいきそうな気がしたんです。もう次の株主総会までは待たないほうがいいかなと思ったので、4月末の株主総会で決めたんです。

「自分が社長をやって副社長と言うのも考えたし、最後までちょっと迷った」という倉林会長だが、最終的には三上昴氏を新社長に抜擢した。いずれはクラブ経営の責任者にと転身を果たしたとはいえ、突然バトンを渡された当の三上社長の心情はどうだったのだろう?

「心が震えるほどの感動を求めて」 金融業界からの転身

岩本:まずは単刀直入に、なぜ倉林さんのオファーを受けてこの沖縄に来られたんですか?

三上:きっかけみたいなものがあるとすれば、自分自身が証券会社で働きながら、泣くほどの感動がないな、心が震えるほど感動する経験がないな、と感じていたことですね。「何のために生きているのか?」とか本当にそこのところで。

岩本:仕事のやりがいとか、達成感はあるけど、そうじゃない部分の。

三上:僕は本田圭佑選手の1学年下、槙野智章選手とかと同世代なんですけど、世界を相手に身一つで戦っている彼らの姿を見て、会社に守られている自分に改めて気づかされたんです。自分の軸がだんだんと会社の中の軸、上司の軸に変わっていって、上司にどう気に入られるかみたいな世界になってきて……。これを脱するには自分が嘘をつけない世界に行くしかないなって思っていたんですよ。自分も週末、都リーグでサッカーをやっていて、やっぱりサッカーってすげえという思いもずっとあって、働きながらそういう仕事を探していた時に、たまたま倉林さんに出会ったんです。

この可能性を自分で閉ざしてしまった時に、自分はこの先何かにチャレンジできるのかと思ったんですよね。

岩本:もっと魅力的なチャレンジがあるのかどうかというのもありますよね。

三上:リスクと言えばリスクですけど、それを取りに行かない人生なら、多分この先自分の成長はないなと。妻が沖縄の宮古島出身ということもあり、これは行くしかないなって思って。

岩本:リリースでも見ましたけど、20歳で初めて沖縄に来て、奥さんに出会って、沖縄との縁みたいなものも感じますよね。

三上:はい、感じます。他の土地、クラブじゃなくて、沖縄、FC琉球だから決断できたというのはあると思います。

岩本:倉林さんが社長をずっと探していて、僕もそれは耳にしていたんですけれど、声をかけられたのは30歳ですよね? おそらく収入面でもアップしたわけじゃないでしょうし、周りも含めて「オイオイ」ってなりませんでした?

三上:なりましたね。家族もなりましたし……。でも、金融は世界がだいぶシュリンクしていて、外国人の上司と話した時に「苦しそうに働いているんだったらやっぱり好きなことにチャレンジしたほうが世界が広がる。稼げる稼げないはわからないけど、そっちのほうが合うかもしれないぞ」というアドバイスをもらっていたんですね。日本人って、家族と過ごす楽しい時間とかなかなか楽しめないじゃないですか。外資系ですら日本の悪しきサラリーマンの風習、会社や上司、お客さんのために時間を過ごすことが正しいという風潮が強いんですよね。そこでやっぱり、自分の好きな世界に飛び込む必要があるんじゃないかみたいなのがやっぱ大きかったですね。

うまくいっているクラブの真似はしない“沖縄のクラブ”としての矜持

岩本:新たなチャレンジが始まって、今年の4月にはもう代表取締役社長になったわけですけど、この人事についてはどのタイミングで聞いていたんですか?

三上:けっこうギリギリです。4月末の株主総会の1、2週間前に倉林さんから話があって。

岩本:倉林さんもギリギリまで悩んだと、さすがに早すぎるんじゃないかとも思ったとも言っていましたけど。三上さんはどう思いましたか?

三上:「やりたいな」っていう思いが強かったです。数カ月経った今思うのは、代表取締役社長の立場になって、会える人の幅がすごく広がったんですよね。取締役が行っても社長と話せない。でも、僕が代表権のある社長という立場になったことで、話を聞いてもらえる人が確実に増えました。

岩本:代表取締役社長であるとともに、Jリーグの実行委員にもなったわけで、沖縄だけじゃなく、日本全体の中のサッカー界でも一気に顔が広がりますよね。Jクラブのトップは、経営者としてもトップの人がたくさんいるじゃないですか。この判断は英断だったなと思います。

三上:今の僕の場合は“もらった立場”なので、そこにどれだけ僕が、「FC琉球の社長に会う」ではなく、個人としての三上に会いたいと思っていただけるか。少しずつFC琉球の社長という価値に追いついていかないといいけないと思っています。

岩本:社長として、自分ごととしてこのクラブのことを考えるようになって、自分たちの課題はどう見えていますか?

三上:僕たちが目指さなければいけないのは「他のクラブ」ではないということですね。Jリーグの中でうまくいっているクラブの真似事をしてもしょうがない。僕らが目指すのは、サッカーを沖縄の文化に、例えば甲子園やエイサー(※沖縄の伝統芸能)、空手、オリオンビールのような存在になっていかなければいけない。サッカーに熱気を生むことをすごく考えていて、社員にも伝えています。

岩本:沖縄といえば、真っ先に思いつくような存在になる、ということですよね。

三上:それです。だから、“いちサッカークラブ”だけで突き進んでも意味がないんですよね。どれだけ沖縄を愛し、沖縄に愛されるのかという理念を持って、それを体現できるのか? これができないとやっぱり沖縄に熱気は生まれないのかなとは感じています。その点では、会社の看板も大きくて、金融というわかりやすい結果のある世界にいた前職のほうが営業が簡単だったなとは思います。

岩本:今、個人で三上さんがこういうふうになりたいっていうその、近未来の自分の社長像みたいなものってあるんですか?

三上:まずは沖縄県内の企業さんにFC琉球を知っていただくこと。営業とも人の心を掴みに行きたいと話しているんですが、今までなかなか県内の企業さんとの関係を築けていなかった。クラブの話をするのも大切ですけど、相手の話をしっかり聞くことはもっと重要。つまり、みんなに僕のことをちゃんと理解してもらうためには、こちらが相手のことをまず理解しないといけないということですよね。倉林さんもなかなか沖縄にいられない時期もあるので、僕がクラブの顔として認識してもらえるようになりたいと思っています。

<了>

PROFILE
倉林啓士郎(くらばやし・けいしろう)
1981年生まれ、東京都出身。4歳からサッカーを始め、筑波大駒場高校、東京大学文科Ⅱ類へと進学。東京大学在学中の2004年に創業し、翌05年にSFIDAブランドを立ち上げ。06年株式会社イミオを設立、代表取締役社長を務める。2016年12月、琉球フットボールクラブ株式会社(FC琉球)の代表取締役社長に就任、クラブの経営危機を立て直し、2018シーズンにJ3優勝、J2昇格を成し遂げる。2019年4月より、取締役会長。

PROFILE
三上昴(みかみ・すばる)
1987年生まれ、東京都出身。幼少からサッカーを始め、武蔵高校、筑波大学社会工学類、筑波大学院システム情報工学研究科MBAコースに進学。筑波大学在学中に4年間、蹴球部でプレー。卒業後、ゴールドマン・サックス証券株式会社に入社。8年間の勤務を経て、2018年11月、琉球フットボールクラブ株式会社(FC琉球)の取締役に、翌19年4月、同クラブの代表取締役社長に就任した。

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