あの日あのころ 第391回

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■家族の幸せを第一に願って
M.Fさん(台町在住・84歳)

私は昭和10年、台町に生まれました。小学4年生の頃、真岡駅周辺にひらひらと燃える焼夷弾が落とされ、日赤や真岡駅周辺を焼き尽くし、私たち家族は被災しました。見慣れた町並みが一瞬でなくなり、心がぎゅうっと締め付けられました。
終戦後は、日本中が食糧難に陥り、さつまいも粉のパンやすいとんを食べて飢えをしのぎ、互いに助け合ってなんとか生き延びました。
6人きょうだいの長男だった私は、弟や妹が将来苦労しないように、高校だけでも卒業させてやりたいと思い、中学校を卒業した後、埼玉県の紡績工場に5年ほど出稼ぎに行き、家計を支え、その後は実家に戻って父のクリーニング屋を手伝いました。
当時は水道がなく、ポンプで水を汲み上げ、木の洗濯板で洋服を洗いました。消毒の技術もまだ発達しておらず、ワイシャツなどは大きな釜で煮て、熱湯消毒を行いました。
クリーニング業だけで生計を立てるのはなかなか難しく、日赤の白衣を何十枚も洗ったり、衣服を自宅まで届けたりと、どこよりも親切な接客を心掛け、市内外にお客さんを増やしていきました。配達作業はとても大変で、道路がまだきれいに舗装されておらず、車の普及率も低い時代です。何度も転びながら砂利道を何十キロも自転車で走りぬけました。この努力があったからこそ、お米が買え、食べていくことができました。
実家は相変わらず裕福とは言えませんでしたが、弟たちを無事に高校や大学まで進学させることができました。家族の体調が悪いときは、どんなに大変でも必ず病院に連れて行き、たまにはみんなで外食をし、誰よりも家族を大切にしました。
周りの方たちには、とても恵まれていて、埼玉の会社の同僚や、取引先の方などとは、今でも付き合いがあり、年に一度は共に旅行をしています。日本全国の北から南まで、数え切れないほどの地域を巡り、たくさんの思い出を作りました。
気づけば私も80歳を超えました。自分が生かされている地球とは、どんなものなのか、日本はどんな歴史があるのか、本を読んで学んでいます。人生という戻れない旅と向き合い、この地球に人間として生まれたことに感謝して、いつか地球という星になって眠りにつくときまで、一日一日を大切に楽しく過ごしていきたいと思います。