【くまもと五輪物語】木庭浩一(上)ボクシング 幻のモスクワ代表 名伯楽とつかんだ夢も…

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県高校新人ボクシング大会で女子選手のセコンドに付く木庭浩一=3日、熊本農高(高見伸)

 1980年夏、モスクワ五輪が開かれた。社会主義国で初めての大会だった。モスクワが首都だった旧ソ連は79年末にアフガニスタンへ侵攻。米国など西側諸国が猛反発し、同調した日本は5月24日、ボイコットを決めた。わずか1カ月前にボクシングのフライ級代表の座を手にした木庭浩一(61)は、不参加の報に立ちつくすしかなかった。

 「オリンピック、なくなっちゃったんだ。心がぽつんと取り残されたみたいな感じがしたのを覚えている。涙も出なかった。そんなに悔しいとも思わなかった」

 幼少時は小柄でひ弱だった。父親の浩さんの勧めで小学3年で柔道を始めると瞬く間に上達し、5年で県大会優勝。オリンピック出場を本気で考え始めた。だが、強豪の九州学院中に進み、要領だけでは勝てないことを思い知る。中学2年の秋、父親の知り合いだった故田中信夫が監督を務める九州学院高ボクシング部で高校生に交じり、サンドバッグをたたく人生を歩み出した。

 「最初の半年くらいは雑誌を見て、練習場の隅っこでひたすらシャドーを1人繰り返していた。まだ打ち合っていなかったので怖さを知らなかったのもあって練習は楽しかった。中学3年の秋に田中先生に『(県高校)新人戦に出ろ』と言われ、高校生と偽って(最軽量の)モスキート級に出場したら、いきなり優勝。ただ、翌日に顔がものすごく腫れ上がり、『このまま続けたらオレ死ぬかもしれない』と少し嫌になった」

 この体験が後の「打たれずに勝つスタイル」の原点となる。1週間後の九州高校新人戦で準優勝。高校1年になった73年5月、熊本代表として沖縄特別国体に出場し、団体決勝で地元沖縄に敗れた。自らがグローブを交えたのは具志堅用高。3年後にWBA世界王者となり、13度防衛した天才に判定負けしたが、1度もダウンはしなかった。

 「前の晩に対戦を告げられ怖くて眠れなかった。ただ、具志堅さんを相手に3ラウンドを戦い抜けたのは自信になった。どうしたら打たれないで勝てるか、ひたすら研究した。相手と距離を取り、足を使ってパンチをかわし、カウンターを的確に打ち込む。要するに要領のいいボクシング(笑)。結局、高校時代に負けたのは具志堅さんと対戦した国体とインターハイの決勝、それとアジアジュニア選手権の決勝だけだった」

 高校時代は国際大会を含め50勝3敗。堂々の戦績を引っ提げて76年春、名門日大へ進む。その年のモントリオール五輪代表は逃したが、大学2年でライトフライ級、4年時はフライ級で全日本選手権を制覇。日本連盟の計らいで79年に名伯楽の故エディ・タウンゼントが専任トレーナーに就き、二人三脚でモスクワ代表への階段を上っていく。

 「エディさんは人間味あふれる人だった。セコンドで『次、倒せるよ。倒しなさい』とささやかれると、その通りの結果になる。まるで魔法にかけられたみたい。『この人に認められたい』と思ったら、どんどん強くなれた」

 代表選考レースの終盤、最大のライバルがプロに転向する中、大学を留年して孤独と戦いながらミットを打ち続け、五輪を待った。だが、米ソの対立で生じた巨大な国際情勢のうねりが目の前まで来ていた夢をのみ込んだ。(坂本尚志)

 ◇こば・こういち 1958年3月10日生まれ。熊本市出身。九州学院高、日大卒。高校2、3年のインターハイで優勝。日大2年で全日本選手権とアジア選手権、4年で全日本選手権を制した。80年モスクワ五輪のフライ級代表。82年に全日本社会人選手権で優勝し、その後のインドネシア大統領杯を最後に引退。アマ生涯戦績は173戦155勝18敗。96年から九州学院高の監督を務める。弟の浩介さん(59)は埼玉・花咲徳栄高ボクシング部の監督として元世界王者の内山高志らを育てた。

(2019年11月8日付 熊本日日新聞朝刊掲載)