月刊牧村 冬期ゼミ#4『イエロー・マジック・チルドレンの逆襲』その1

2019年2月11日(月・祝)ROCK CAFE LOFT is your room

【講師】牧村憲一

【ゲスト】高野寛、吉村栄一

お二人のお話の中に出てくるように、誰もがYMOと気軽に呼びながら、実は緊張する(笑)YMOであります。しかもファンがうるさい、おっと詳しすぎる。ということで3回にわたっての連載予定です。(文責・牧村憲一)

音楽以外のジャンルにも多大な影響を与えたYMO

牧村:今日は『Yellow Magic Children 〜40年後のYMOの遺伝子〜』のバンド・マスターを務める高野寛さん、編集者の吉村栄一さんをゲストにお招きしました。まずはお二人にお任せして、後半に戻ります。

吉村:よろしくお願いします。まず、YMCというのはそもそも何なのかという話から始めましょうか。

高野:YMC=Yellow Magic Childrenですね。YMOが活動していた当時、小、中、高くらいだった世代…今で言うアラフィフですよね。その世代がYellow Magic Childrenと呼ばれていて、去年、YMOが結成40周年を迎えたということで、YMCによるYMOのトリビュート・ライブをやることになりました。YMOと言えばテクノポップが看板で、そのトリビュート・ライブをやるとなると、そのままのアレンジでコピーをするバンドが出ると言うか、デスクトップの機材を使ったクラブイベント寄りの形が中心になると思うんです。ところが僕も含めてなんですが、YMCのミュージシャンは必ずしもテクノポップをやっているわけじゃない。

吉村:そこがYMOの面白いところなんですよね。ビートルズに影響を受けた人はギターやベースを弾くようになってバンドを始めるけど、YMOに影響を受けて音楽を始めた人は必ずしもテクノをやるわけじゃない。電気グルーヴとか僅かな例外を除いてですけど。

高野:僕は高1だった1980年くらいから本格的にYMOにのめり込んでいったんですが、当時すでにギターを始めてから3、4年経っていたんです。その頃はまだシンセが高価なもので、なかなか高校生には買える代物じゃなかった。それに高校入学のタイミングでギターとベースを買ってしまったし、そこでさらにシンセまでは買えないという現実に直面しまして。普通にバンドをやりながらYMOみたいなことをやりたいなという憧れが3年くらい続いたんですけど、3年も経つとシンセの値段がグッと安くなるんですね。その時期にシンセを購入したのが槇原敬之君や電気グルーヴといった世代なんですよ。そういうタイミングと言うか、運の巡り合わせもあったと思います。僕はテイ・トウワ君と同い年なんですけど、テイ君の場合はバンドマンじゃなかったし、美大を目指していた人だったから元のセンスがデザイナーぽかった。それで彼は最初に買った機材がシンセ(コルグのMS-10)だったわけです。テイ君は僕と同世代の中ではわりと例外的で、シンセを買ったのが一番早かったのかもしれません。

吉村:1980年当時、若者に買えるシンセはモノフォニックくらいでしたよね。1音しか鳴らないっていう。

高野:そうそう。それじゃ何もできなかった。単音なので「BEHIND THE MASK」のリフも弾けない(笑)。まぁそういうわけで、YMOに影響を受けつつもテクノポップじゃないフィールドで活躍しているミュージシャンが実はたくさんいて、なかにはボーカリストだけどYMOの影響でスタイルが決まったという人もいっぱいいるんです。そこにスポットを当てているのが今回のトリビュート・ライブなんですね。話を広げると、ミュージシャン以外にもYMCはいて、たとえば画家の五木田智央さんもそうだし、吉村さんもYMCじゃないですか。

吉村:そうですね。あと亡くなってしまったけど、ゲームクリエイターだった飯野賢治君とか。YMOに影響を受けて広告やデザインに進んだ人も多いですね。

高野:YMOの発信する情報は音楽に限らず、書籍、テレビやラジオの番組とか多岐に渡りましたからね。『OMIYAGE』という写真集もあったし。

〈YMOの遺伝子〉とは何か

吉村:高野さんが緒川たまきさんと一緒に司会をやっていた『土曜ソリトン SIDE-B』というテレビ番組もYMOっぽさがありましたよね。

高野:あれは元を辿ると、NHK教育テレビの若者向けカルチャー番組の時間帯だったんですよ。土曜の夜11時ですね。もともと糸井重里さんが司会の『YOU』という番組がやっていた枠で、そこにYMOが時々ゲストで出ていたんです。『YOU』の前が『若い広場』だったかな。そういう若者が語り合ったりする教養バラエティの枠だったんですね。

吉村:『若い広場』はスネークマンショーでパロディにされてましたけどね(笑)。

高野:その『YOU』からの流れを汲む枠のトーク番組で僕が司会をすることになったんですが、最初は医者や作家、編集者といったいろんなジャンルのゲストを呼んでいたんですよ。その中で坂本龍一さんをゲストに迎えた回がものすごく反響を呼んで、それから徐々にYMO寄りの番組になっていった印象が僕の中にはありますね。

吉村:坂本さんが最初にゲストに出たのは何年でしたっけ?

高野:1995年です。

吉村:ということは、『スウィート・リヴェンジ』のツアーをやった次の年くらいですね。

高野:僕がギタリストとして参加させてもらったツアーですね。その流れもあって『土曜ソリトン SIDE-B』に出てもらいました。

吉村:そもそもの話に戻りますが、YMOが結成40周年を迎えたので何かイベントをやりたいと思っていたら、新宿文化センターという施設もたまたま40周年ということで、その場所でYMOを絡めたイベントをやれないかなと思ったんですよ。そこで真っ先に思い浮かんだのが高野さんだったんです。

高野:吉村さんと牧村さんが思い浮かべたのが僕だったと(笑)。

吉村:それが去年の夏くらいです。それからトントン拍子で話が決まっていって、人選もあまり迷わなかったですね。

高野:そうですね。最初にYMOチルドレンのハウスバンドを作って、そこにゲスト・ボーカルをお呼びするというフォーマットが決まったんですが、バンドのメンバーはこの人たちしかいないだろうと自分の中でイメージができていました。ただ、キーボードだけはちょっと悩みましたね。いろいろと考えた挙句、網守将平君という20代後半の音楽家を大抜擢しました。

吉村:孫までとは言わないけど、チルドレンの世代ではないですね。

高野:それが逆に良かったんです。網守君に決まった時に、このライブは単に当時を回顧するものではなく、YMOの遺伝子をこの先も受け継いでいくという意味合いを持たせることができると思ったので。

吉村:高野さんとしては、後世に残すべきYMOの遺伝子とはどんなところだと思いますか。

高野:今の音楽シーンにおいて、YMO的なものが全面に窺い知れるところは少ない気がするんです。たとえば星野源君みたいな著名なミュージシャンであり俳優がいろんなテレビやラジオで細野晴臣さんやYMOについて話したりするけど、若い人たちはそこで止まっちゃうと思うんです。星野君を通じてYMOや細野さんのソロ作を聴いてみようとは思わない気がする。自分の気持ちとしては、まずやっぱり音楽をちゃんと再発見してほしいんです。それとさっき話したようにYMOの影響は音楽以外のジャンルにも及んでいて、それはYMOがただのミュージシャンじゃなかったからだと思うんです。僕の中でYMOはオルタナティヴの本当の意味だったり、アートの本質を教えてくれた存在だったんですね。すべてのことをまっすぐ見るのではなく、斜めから見ると違った側面が見えてくることを教えてくれた。そういう物の見方を復活させたいし、それが本当の意味でのYMOの遺伝子だと僕は思っています。

吉村:牧村さんと一緒に今回のライブを高野さんにお願いしに行った時、YMOのカバーはもちろんやっていただきたいんだけど、YMOに影響を受けたオリジナル曲もぜひやってほしいとリクエストしたんですよね。そのオリジナルにこそYMOから受け継がれたものが見えてくるんじゃないかと思ったので。

高野:ゲストで来てくださる皆さんにもYMOのどんなところに影響を受けて今に至ったのかとか、そういう話も伺いたいですね。

吉村:そうですね。高野さんに受け継がれたYMOの遺伝子が網守さんのような若い世代に受け継がれ、さらにその下の世代にも受け継がれていくという希望をもっていきたいですね。

高野:J-POPのシーンにおいては、今やその役割を星野源君が一手に引き受けている感じですが(笑)、もうちょっと違う広がり方をしていけたらいいのになと思うんです。若いバンドやミュージシャンにもYMOの遺伝子を感じさせる人たちはいっぱいいるし、そういう人たちにスポットを当てることでそのシーンが活性化したらいいのにと思うし。

3人が集まった時の緊張感の凄まじさ

吉村:高野さん自身は80年代に高橋幸宏さんと鈴木慶一さん主宰のオーディションで見いだされ、幸宏さんプロデュースのシングルでデビューして、90年代には坂本さんにプロデュースされ、2000年代には細野さんのバックで演奏して…という感じでYMOチルドレンの王道的路線を突き進んでこられましたが、ご自身の中ではYMOのどんな部分を受け継いだと自覚していますか。

高野:自分にとってYMOは親みたいな存在で、自分の親のことってよく分からないですよね(笑)。あまりに影響を受けすぎちゃっているので。そういう部分もあるし、ずっと背中を見続けてきた部分もありますね。直接何かを言われたといった影響の受け方ではなく、近くにいられたがゆえにメンバーの皆さんがやっていることや振る舞い、あるいは現場の空気みたいなものに影響を受けたと言うか。YMOに関して言えば、もの作りに対する厳しさ…3人が集まった時の緊張感たるや、凄まじいものがありますよね。1人1人はとてもフランクに接してくれるんだけど、それがひとたびYMOになると、冗談を言う雰囲気はありつつも一点たりとも妥協を許さないムードになる。3人にとってもYMOは安易に触れてはいけない領域なのかなと感じました。普通、40周年を迎えるともなれば、たとえば大々的にツアーを組んだり、代表曲のセルフカバーを発表してみたりするじゃないですか。だけどYMOは40周年を迎えても何もやってくれない(笑)。

吉村:そういうことに全く興味がないんでしょうね(笑)。

高野:そういうのがYMOらしいと言えばらしいんですけどね。普通はそこまで自分たちらしさを貫けないと思うんですよ。

吉村:YMOをやるべき理由がないと絶対にやりませんからね。…ではここで、ちょっと曲を聴いてみましょうか。

──高野寛「夢の中で会えるでしょう」

(次回へと続く)

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