先人たちの足跡 No.242

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●龍角寺略縁起について(2)
「略縁起」類の2番目として「二王縁起全」(麻生・加藤家文書)を紹介します。3種の「略縁起」類の原文をはじめて全文活字化されたのは、前回も紹介した大野政治氏ですが、それより先に栄町・栄町教育委員会発行の『ふるさと竜角寺』(山田富士雄・昭和40年)では、これらの内容について詳しく紹介していますので、一読をお勧めします。また、龍角寺開基1,300年記念事業実行委員会から配布された印刷物(孔版)『口語訳龍角寺略縁起全・二王縁起全・勅願請雨由来全』(栄町古文書学習会会長井場幸也・平成21年)が平易な口語訳となっています。
さて、「二王縁起全」は奥書によれば「天竺山寂光院龍角寺/住持沙門堯珍謹略」とあることから、堯珍による一連の「略縁起」となります。また、「右板行施主埴生郡田川村/糸賀与三右衛門」(現茨城県河内町)がスポンサーとなっていることが確認できます。本書は半紙判で表紙半丁、本文2丁半で仕立てられた版本となっています。
具体的な内容については、冒頭に「夫我朝人皇第六十二代村上天皇の御宇天暦三年己酉の三月八日、一人の僧化来して云く、当寺ハ龍女建立の奇特の霊場なる由伝へ承る際、遠方より参詣を企つ処なり、吾は造仏の故実あり、然らバ二王を造立して当寺の仏法を護持せしむべしと云々…」とあり、天暦3年(949)に一人の僧が龍女建立の霊場である龍角寺に参詣して、仁王像を彫刻し造立するというもので、「僅に七ヶ日の間に左方の力士を一尊刻彫し畢て作者の名字を木屋に書置く語云…」とあり、7日間で金剛像を制作して、書置きを残して行方知らずになってしまった。そこには、本尊は釈迦牟尼如来の自作であり、自分は毘首羯磨天(びしゅかつまてん:帝釈天の臣で種々の細工物をを作り建築をつかさどる天神:『広辞苑』第二版)であると記されています。
その後、「人皇第六十六代一条の院の御宇正暦年中に勅定に依て、仏師運慶を以て右方の力士をこれを作り続しめられ訖んぬ…」とあり、正暦年中(990-995)に運慶が力士像を制作したとあります。ご案内のように運慶(?-1223)は、鎌倉時代初期の仏師ですので、年代にずれがあることがわかります。これらのことから大野政治氏は、「この二王は永正三年の火災で焼失、永禄十年再建されたもので、文化五年頃はあったものであろうが、明治19年の火災で焼失した。毘首羯摩にしても伝説の人、運慶にしても生存年代に甚しい相違があるので、縁起の作者が本寺の仁王像が如何にすぐれた仏師によって敬刻されたかを強調したのであって、龍腹寺の如き霊験談もなく、三部作中一番簡単なものである。」と解説されています。
現在境内に残されている礎石(四脚門跡)と明治25年11月の「龍角寺住職入山式図絵馬」に描かれている山門の一部に該当するものなのかは不明です。
なお、この絵馬は現在、房総のむら風土記の丘資料館で保管されています。作者は小川半窓で、縦112.2cm、横180.5cmの大型なもので、杉板に極彩色で描かれています。現在は見ることのできない元禄再建の本堂の一部や鐘楼などが描かれ、燈籠や樹木は今でも現位置を留めていることがわかります。
(栄町史編さん委員会文化財社寺部会)

◎生涯学習課文化財班
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