日本ハムで本塁打王を獲得したボビー・ミッチェル氏死去 シーズン2本の“幻の本塁打”

ボビー・ミッチェル氏のNPB通算成績

4年連続でパ・リーグの最多三振をマークも豪快なホームランも魅力

 1970年代、日本ハムの主軸打者として活躍したボビー・ミッチェル氏が9月29日に死去した。75歳だった。ミッチェル氏は1943年10月22日、ペンシルベニア州の出身。ノリスタウン高校卒業後、1965年、ボストン・レッドソックスと契約。同校からのプロ入りは、殿堂入りの名将、トミー・ラソーダ氏以来だった(以下敬称略)。

 1968年にはルール5ドラフトで、ニューヨーク・ヤンキースに移籍。翌1969年にはアトランタ・ブレーブスに暫定移籍したが、翌70年3月にまたヤンキースに復帰。この年7月5日にメジャーに昇格した。

 翌71年にはのちに大洋でプレーするダニー・ウォルトンとのトレードでミルウォーキー・ブルワーズに。75年はDHとして194打席に立ち4本塁打、76年はハンク・アーロンの移籍に伴い左翼を守り259打席で9本塁打。しかし、レギュラーの座を得ることはできず1976年に日本ハムへ入団。日本ハムは前年オフに張本勲が巨人に移籍、これに代わる主軸打者の獲得を目指していた。同年、ヤンキースからウォルト・ウィリアムスも入団している。

1977年には2本の幻のホームランが響き本塁打王を逃す

 ミッチェルはやや出遅れて、4月27日の後楽園、近鉄戦がデビューとなる。「7番・DH」で先発し、2回裏に神部年男から初打席初本塁打を記録した。この年23本塁打。同僚のウィリアムスも同じ23本塁打。190センチと長身のミッチェルと、168センチとずんぐりして「ノーネック」とあだ名されたウィリアムスの凸凹コンビは、人気を呼んだ。

 三振が多い荒っぽい打者ではあったが、次第に日本の投手に慣れて長打を量産するようになる。1977年は、4月29日のロッテ戦、7月11日のクラウン戦で打った2本の本塁打が雨天中止によって「幻の本塁打」となる。この年の本塁打王はロッテのレロン・リーの34本塁打。ミッチェルは32本塁打だったが、幻の2本がなければ本塁打王をリーと分け合っていたことになる。

 しかし、1978年には36本塁打で本塁打王のタイトルを獲得した。この年はオールスターゲームにも出場している。1979年限りで退団。在籍は4年だったが、4年連続でパ・リーグの最多三振を記録した。

 MLBでの通算記録は、273試合609打数143安打21本塁打91打点168三振、打率.235

 NPBでは474試合1718打数429安打113本塁打294打点523三振、打率.250、本塁打王1回、オールスター出場1回だった。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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