中島みゆき「グッバイガール」時代に媚びを売らない国民的カウンターミュージック 1988年 11月16日 中島みゆきのアルバム「グッバイガール」がリリースされた日

瀬尾一三が初参加したアルバム「グッバイガール」

今から31年前に発表された中島みゆきのアルバム『グッバイガール』(1988年)。現在もプロデューサーを務める編曲家の瀬尾一三が初参加したターニングポイントの作品である。

冒頭からペッカペカのシンセが鳴り響き、人肌の温度が排されたメタリックなサウンドに溢れているが、それでいて少しも浮き足立たない彼女の世界観がより鮮烈な印象を残す。バブル景気の最中にありながら、まるで後の世の恐慌を見透かしていたかのようだ。今改めて流石と唸らせる。

特に、歳末の自殺者を題材にした「十二月」から、倫理を無視した言葉の数々が突き刺さる「たとえ世界が空から落ちても」「愛よりも」「吹雪」という展開は、よくまぁメインストリームで人気を獲得してからも堂々と演っちゃえるよなぁと聴くたび思う。

中島みゆきの真骨頂は、誤解を恐れず堂々と歌い上げる表現力

 嘘をつきなさい ものを盗りなさい
 悪人になり
 傷をつけなさい 春を売りなさい
 悪人になり
 救いなど待つよりも 罪は軽い

上記は「愛よりも」の歌詞の一部。歌には逆説という論法がある。本心と異なる言葉を敢えて並べることで、その思想の危うさや滑稽さを浮き彫りにしてみせようという狙いである。大概そこには、悪い冗談や偽悪や反面教師だと分かるような言葉づかい、歌いまわし、曲調などが付いているものだが、みゆき嬢の場合それら注釈が何もない。

誤解されることを恐れず、ひたすら別の誰かに変身したように言葉を吐き出す。フィクションへ邁進する姿勢が、他のシンガーソングライターの次元とは明らかに違うのだ。

それゆえ、時に人々に不気味がられたり、嘲笑われたりもしてきたのだと思う。生粋のファンからすると、こういう怖い曲もむしろ聴いててスカッとする。思想がどうこうの前に、表現力という得体の知れないカタマリにやられて惚れてしまうのである。類例を挙げるなら “バットマンの悪役がかっこいい” とか “ゴジラがかっこいい” といった感覚に近いかも知れない。

孤高のシンガーソングライター中島みゆき。ロックでも J-POP でも歌謡曲でもない

かつて日本の音楽界は、安保闘争以降のフォークシンガーたちが音楽的拡張を遂げた勢力のことをニューミュージックと称して区別した。ひとくくりにされた中には、フォークとは端から毛色の異なる殊に都会的(洋楽的)な作風をもったシンガーソングライターやバンドマンもいて、彼らが後にいう J-POP の基盤をつくり、それまで山のようにいたフォーク系ニューミュージック勢をメインストリームから追いやった。

中島みゆきはいわば、その時代転換に置いていかれなかったフォーク系ニューミュージック勢の数少ない生き残りだ。レコード芸術としての先見性、あるいは強いビートから発せられる肉感性、そういったところにカタルシスを感じる典型的なロックリスナーにとって、彼女の存在は昔も今も奇妙なはずである。

昭和歌謡の範疇で捉えられるだけ古めかしい音楽ならば、DJ の考古学的嗜好からサブカルチャーとして面白がられる場合もあるけれど(和モノってやつね)、さほど垢抜けていないのにロックよりも尖ってさえいるみゆき嬢の音楽は、批評の地平では捉え難く、ほぼ黙殺されている。国民的歌手ながらある意味、最たるカウンターミュージックを担ってきたのが彼女なのである。

ロックでも J-POP でも歌謡曲でもないままに、ウン十年。もはや中島みゆきとしか呼びようのないジャンルからは今なお、特撮のように轟く表現力によって物事の真理を気づかせるフィクションが、次々とこの国へ放たれている。時代はまわっているはずだが、稀に不動のものも存在するらしい。

※2018年2月23日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 山口順平

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