東日本大震災、身元不明者と遺族つないだ似顔絵 事件で磨いた技術、生かし伝える宮城県警OB

東日本大震災で犠牲になった人たちの似顔絵を描いた安倍秀一さん。この女性の身元は今春、絵がきっかけとなり判明した

 安倍秀一さん(69)は、宮城県警で20年以上にわたって事件や事故の容疑者の似顔絵を描いてきた。2011年3月の東日本大震災後は、犠牲になった遺体の顔写真を基に似顔絵を描き、身元特定に貢献。判明した身元はこれまでに計25人。定年後の今は後輩たちにその技術を伝え続けている。

 県警では事件現場に臨場する傍ら、幼い頃から好きだった絵の技術を生かして、容疑者らの似顔絵を年間100人以上描いていた。身元不明遺体の顔を基に生前の顔を描き出すこともあった。白骨化した遺体であれば骨格や検視の記録から年齢や肉付きを推測して描写し、生前の姿に近くなるように仕上げた。

 震災は、定年退職後、再任用期間中に発生。鑑識課の課長補佐として県内各地の検視会場を回った。身元確認に必要なDNA型鑑定のために、遺体を探しに来た人から口腔内の細胞を採取する方法を現場の警察官に指導した。会場の近くには遺体安置所が設けられていた。そこでは、行方が分からなくなった家族を多くの人々が探していた。「何とか探してあげたい」。現場の作業に追われながらも思いが強まった。

 身元確認は身体の特徴や所持品などを基に進められる。だが、時間が経過するにつれて遺体の傷みが激しくなり、家族が見ても判別できなくなっていった。こうした中、県警の身元確認班は、安倍さんがこれまで事件現場で発揮してきた似顔絵を描く力を借りることにした。遺体の似顔絵を公表し、情報を集めようと考えたのだった。

 絵を描く上でベースにしたのは検視時に撮影された遺体の写真。顔は、津波で傷ついたり、水を含んで膨れたりして写っていた。それでも、「一人でも身元が分かってほしい」という一心で、写し出された遺体の顔の写真をつぶさに観察した。まぶたやしわも細かく再現した絵は計100人近く。県警は、12年5月から順次、報道機関やホームページに公開した。

 今春には宮城県女川町の平塚真澄(ひらつか・ますみ)さん=当時(60)=の遺骨が遺族の元へ戻った。「口元や顎のラインが似ている」と安倍さんの似顔絵から親族が気付いた。遺体が見つかったのは11年4月ごろ。絵は、1日以上かけて描き上げたものだった。「やっと分かったんだ」。身元判明の報道を見て、少し胸のつかえが取れたような気がした。

 宮城県東松島市で犠牲になった独り身の70代男性のケースでも似顔絵は役に立った。遺体発見現場周辺で安倍さんの絵を持って聞き込みをすると、別れた元妻との間に一人息子がいることが判明。捜し出し、DNA型鑑定で親子関係を特定した。連絡を受けた息子は長年父親と関わりが無く、遺骨を引き取るかどうか迷ったという。妻から「家族の元に帰りたいのでは」と諭され、受け取ることを決めた。

 やがてその男性から手紙が届いた。そこには「小学生の時に両親が離婚したため、わが子との接し方が分からない」という悩みも記されていた。犠牲になった男性の代わりのようにこう返事した。「愛情を持って接すれば大丈夫」。それ以後、家族写真を載せた年賀状を毎年送り合うようになった。新たに心のつながりが生まれたことに喜びをかみしめている。

宮城県警本部で行われた講習会で、遺体の顔写真を見ながら似顔絵を描く警察官=7月5日午前11時、仙台市青葉区

 今は非常勤職員として県警の似顔絵講習会で講壇に立つ。19年7月、県警本部で開かれた似顔絵の講習会では、県内から集まった警察官たちが、食い入るように遺体の顔写真を見つめながら鉛筆を握っていた。安倍さんは「遺体の顔は筋肉が緩みのっぺりしている」と指摘。生存中の顔の凹凸を意識して描くよう呼び掛けた。参加した30代の女性警察官は「遺体発見時の資料から、生前の顔を再現するために必要な情報を読み取って描くのは難しく、習得するのは大変だ」と語る。「技術を引き継いでいってほしい」。できる限り続けるつもりだ。

 ▽取材を終えて

 安倍さんに会いたいと思ったのは、19年4月下旬、平塚さんの遺骨がご遺族に引き渡されたのを取材したのがきっかけだった。ご遺族が宮城県石巻市の霊園で骨箱を受け取り、少しほっとした表情を浮かべたのが強く印象に残った。震災発生から8年8カ月。宮城県内の行方不明者は1200人を超える。この間、ご遺体の身元確認は進んだものの、9体は依然不明のままだ。一方で、それぞれの犠牲者には帰りを待つ家族がいる。この事実を忘れてはいけない。その思いを強くした取材だった(共同通信=岩切希)

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