三田市史だより157

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◆「三田藩一揆(いっき)」から150年
三田藩では、例年11月15日(旧暦)前後にその年に納めるべき年貢高を村単位で確定させ、12月下旬までに完納させるスケジュールでした。しかし明治2(1869)年は相当な不作で、夏ごろから年貢の完納はもとより、冬季以降の生活困難が危惧される不穏な情勢にありました。
11月15日早朝、下相野の山手にあたる高熊の辻に三田藩領北部地域の数百人が集結し、手分けして藍・本庄地区の村々に押し寄せる事態となりました。また、三輪の高台にある上野ヶ原にも南部地域の人々が集結し、三輪地区北部から小野・広野へと移動し、加茂で北部地域の集団と合流しました。

加茂では藩主の九鬼隆義(くきたかよし)が自ら群衆の説得にあたろうとして失敗。一団は上野ヶ原に移動し、翌16日には三田城下の裕福な商人を標的とした打ちこわしが始まりました。群衆は、鎮圧にあたる藩当局に対して14カ条の要求を行いました。その冒頭には、年貢の5割減免が掲げられましたが、それ以外の13項目は、幕末以降に推進された民政に関わる一連の「御変革」の中止と「復古」、それらを主導した白洲退蔵(しらすたいぞう)や小寺泰次郎(こでらたいじろう)ら改革派と目された役人の更迭(こうてつ)を求める内容でした。

丹有地域一帯に波及したこの騒動は、「三田藩一揆」と呼ばれています。当時の統治者側の記録には、「一揆」や「惑乱(わくらん)」と記されていますが、一般的には「強訴(ごうそ)」と表現されました。三田城下の商人が書き留めた記録には、「郷騒」とあり、読みは恐らく「ごうそ」ですが、文字に村方の騒動の意味を込めたものと思われます。

天候不順がきっかけの騒動ですが、その背景は複雑です。三田藩の先進的な民政改革に続く明治維新という大きな変革のうねりに対する民衆の不安。貨幣経済が前面に押し出されつつある中での農村と都市の利害対立。さらには、統治者内部での改革に対する温度差。まさに変革期の陰の部分が表面化した騒動でした。今後さらなる史料の発掘と検証が求められます。