〝報道被害〟癒えぬ傷 100%は消せないデマ 警察重視、特オチ…残る事件取材の問題点 桶川ストーカー殺人20年(下)

猪野詩織さんの遺影を胸に記者会見する母の京子さん(左)と父の憲一さん=2005年1月、東京・霞が関の司法記者クラブ

 「デマを100%消すことはできません。私たちは死ぬまで背負わなきゃいけないんです」。20年前の桶川ストーカー殺人事件で犠牲になった猪野詩織さん=当時(21)=の母、京子さん(69)は訴える。今も自宅前にはやじ馬とみられる車が止まり、講演会などで詩織さんに悪い印象を持ったままの人に出会うという。事件は激しい取材攻勢と扇情的な報道をしたマスコミに課題を突きつけた。(共同通信=沢田和樹)

 ▽「警察が言っている」

 当時、なじみの薄かったストーカー犯罪という背景もあり、マスコミの取材、報道は過熱した。約3カ月間、自宅前に報道陣が張り付き、遺族は人の波をかき分けて家を出入りした。詩織さんのひつぎを載せて葬儀場へ向かう際、報道陣がカーチェイスのように追い掛けてきた。京子さんに「マスコミがストーカーになった」と言わしめる取材だった。

 埼玉県警上尾署の記者会見では、事件の概要に加え、詩織さんの時計やバッグのメーカーまで明らかにされた。元交際相手が風俗店関係者だという情報もあいまって、一部メディアは詩織さんについて「ブランド依存症」「風俗嬢」と臆測を書き立てた。

 近所には「火のないところに煙は立たない」と言う人もいた。自宅を訪れた役所の職員が、事件現場に手向けられた花を「片付けろ」と言いに来たこともある。遺族は自分たちと接する人々の態度が露骨に変わるのを感じていた。

 憲一さんが衝撃を受けたのは、全国紙の虚報だった。「実行犯が逮捕されると、遺族は菓子折りを持って上尾署にお礼に訪れた」。捜査を怠った警察に謝礼などあり得ない。憲一さんが新聞社に抗議すると「警察が言っている」と反論された。家族に確かめれば分かることだが、記者が押し寄せるメディアスクラムの状況で遺族が対応するのは困難だった。

 後日、新聞に訂正記事が載った。「娘のことを面白おかしく書くのも許せないが、なかったことをあったと書くのはそれ以上にあり得ない。新聞が世に流れるデマを支えてしまった。最低だ」。今も怒りはくすぶる。

 ▽記者、深く考えて

 「警察などの当局は都合の良い情報しか言わない。警察取材に頼る危険性を示した事件だ」

 そう振り返るのは、写真週刊誌「FOCUS」(2001年休刊)の記者として事件を取材した日本テレビ特別解説委員の清水潔さん(61)。地道な関係者取材でいち早く容疑者を割り出し、上尾署の捜査怠慢を特報した記録は本にまとめられ、反響を呼んだ。

インタビューに答える日本テレビ特別解説委員の清水潔さん=2019年10月11日、東京都港区

 清水さんは、マスコミの事件取材の問題点をこう指摘する。

 「情報が集まる警察への取材は重要だが、そこで得られるのはあくまでも捜査情報だ。関係者に取材を尽くし全体像を把握した上で、自分の責任で記事を書くべきなのに、警察の言い分を重視する傾向にある」

 「料理長が『警察によると、おいしいそうです』と言って料理を出すようなものだ。求めている人に、自分がおいしいと思う料理を出さないといけない」

 自宅を取り囲む報道陣が遺族に取材できない中、清水さんは先んじて憲一さんに話を聞いていた。取材で信頼を得た詩織さんの友人が、清水さんと憲一さんの間を取り持ってくれたのだ。

 「記者が遺族に『再発防止のため』とか『知る権利』を振りかざしても、取材に応じる余裕がないのは当たり前だ。真実を知るためには遺族に接触を試みる必要があるが、方法が問われている」

 「憲一さんは信頼できる人には話す姿勢だった。だからこそ記者は相手からどのように信頼を得るのか、深く考えてほしい。メディアスクラムは論外だ」

 日本新聞協会などは01年、当事者を強引に囲む取材をしないといった順守事項をまとめた。憲一さんは「この20年で被害者団体や弁護士の被害者支援も進んだ。マスコミも取材にルールを設けるなど、確実に変わってきている」と言う。ただ、事件が起きれば記者が関係先に集まる構造は変わらない。代表社が取材し、各社で情報を共有する場合もあるが、あくまでも例外的だ。

 清水さんは、メディアスクラムがなくならない要因として、報道機関の「特オチ」を恐れる姿勢があるとみる。特オチとは、自社だけが重要な情報を報じられない事態を指す業界用語だ。もしも自分がいない間に遺族が取材に応じれば、自社だけが報じられなくなる。その恐怖で現場を離れられない記者が増え、一カ所に報道陣が集まる。これは警察や他の関係先の取材でも変わらない。

 「みんなが同じ情報を追い求め過ぎだ。だからこそ、ニュースの質ではなく、報じる速さの勝負になっている。いびつな競争関係から抜け出す必要がある」

 社会のマスコミ不信は根深い。「特効薬はない。何のために記事を書くのかを自分の頭で考えて議論し、取材相手に手紙などを通して丁寧に伝えるしかない」

  ◇  ◇

 事件から20年。憲一さんや京子さんは講演会で登壇した後、「初めて本当のことが分かりました」という人と会うことがある。そのたびに自分たちが詩織さんに代わって発言する意味をかみしめる。憲一さんは言う。「何があろうと闘っていきます。詩織の汚名をそそげるのは、親の私たちしかいませんから」

猪野詩織さんが刺殺された事件現場の近くに手向けられた花束=2019年10月26日午後、埼玉県桶川市

 今年、憲一さんの元には多くの取材依頼があった。「詩織の命日までの1週間は休みなしでした」と言う。まだ報道被害の傷は癒えない。記者の取材の仕方に首をかしげたくなることもある。ただ、基本的に取材は断らない。マスコミに汚された名誉は、マスコミに取り戻してほしいという思いもある。

 ちょうど20年となる10月26日、憲一さんの姿は、小学生のサッカー大会が開かれる上尾市の運動場にあった。命日に特別なことをするのではなく、普段通りの姿を詩織さんに見せたかった。

 事件の数年前、着替えのTシャツを忘れた憲一さんに、詩織さんは自転車で息を切らせて届けてくれた。審判の試験を受ける際、車で送ってくれたのも詩織さんだった。「悪いやつがいたら、お父さんがレッドカードを出してやる」。天国の詩織さんを見守りたいという思いで、ひつぎには審判服を入れた。

 憲一さんはこの日、2試合で主審、副審を務め、69歳とは思えぬ健脚で運動場を走り回った。「お父さん、元気でやってるぞ」。詩織さんにそう伝えたかった。詩織さんが生きた証しを示すため、これからも妥協せず事件の再発防止を主張していくつもりだ。(年齢は取材当時、終わり)

小学生のサッカー大会で審判を務める猪野憲一さん(中央)=2019年10月26日午後、埼玉県上尾市

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