国策に利用された「聖医」の記録

By 江刺昭子

結核療養中の小川正子

 ハンセン病の患者家族への補償を定めた法律が成立した。差別と偏見が患者・元患者だけでなく、その家族にまで及んだのは国の長期にわたる隔離政策によるが、そのような国策に利用された戦時下のベストセラーがある。

 瀬戸内海の島にある長島愛生園は、かつて国立のハンセン病患者の収容施設だった。ここに医師として勤務した小川正子(まさこ)の手記『小島の春』が1938年に出版され、30万部も売れた。中四国地方の村々を定期的に巡回検診して患者を発見し、施設に収容した記録である。

 小林秀雄や川端康成ら多くの作家や評論家が絶賛した。豊田四郎監督・夏川静江主演で制作された映画は、40年の『キネマ旬報』のベストテン1位になった。

 同書には巡回検診の旅先での人びととの触れ合いや風景が、短歌をはさんで達意の文でつづられているが、患者を収容する場面はむごい。

 貧しい家の病気の父親を家族から引きはがしてトラックに収容する。子どもが泣きだす。たまりかねた父親が懐からなけなしの小遣いを取り出して渡そうとするのを、持って行けと妻が止める。療養所に入れば一生出られない。

 「その峠の道を矢の様に駈け下りてくる九つのあの男の児『あれ先生、追いかけてきます』と父親が泣き出す』」。そのあとに短歌4首があり、そのうちの2首。

 トラックのふちにつかまりすすり上げすすり上げ泣く四十の男

 夫と妻がその子が生き別る悲しき病世に無からしめ 

 「可哀想だけれども、済まないけれども、もっともっと大きな目的の為に、もっともっと正しく広い人類全体の幸福のためには私は病気の父親を妻から、子から、その愛着から奪って連れていかねばならなかった」。それは「祖国を潔める」という使命であったとあるが、どういうことだろうか。

 小川は1902年、山梨県春日居町(現・笛吹市)で製糸工場を営む裕福な家庭に生まれ、19歳で結婚するが、2年余で破綻。自立を目指して東京女子医学専門学校(現・東京女子医大)に学んだ。

 東京多摩のハンセン病療養所、全生病院を見学して光田健輔院長の話に感銘を受け、家族の反対を押し切って、光田が転任していた長島愛生園に医師として赴く。

 32年から約6年間、身を粉にして働くが、結核にかかる。園内で療養中、書き留めていた検診記録を整理して本にしたのが『小島の春』。明治以来、ハンセン病患者のために献身した医師や看護師は少なくないのに、彼女が「聖医」とまで美化されたのには、時代背景がある。

 ハンセン病をめぐる国の政策が大きく動いたのは1929年。患者全員を社会から隔離する「無癩(むらい)県運動」が始まった。さらに「癩予防法」(旧法)ができて、無癩県運動が強化された。紀元2600年にあたる40年までに「祖国浄化・民族浄化」を達成しようというのである。

 この政策と世論を主導したのが、小川が尊敬する光田健輔だった。日中戦争から太平洋戦争へと向かう時期である。小川は皇軍の兵士に比肩する銃後の戦士とたたえられる。

 作者の使命感からくるひたむきさ、純粋さは、読む人を感動させる力がある。しかし、それはハンセン病感染への恐怖や、不治の病であるという誤った知識を広めることにもなった。もちろん当時は有効な治療薬が発見されておらず、小川の認識や実践を今の医学水準で裁くことはできない。しかし、良かれと思って実行した行為とその記録が、結果として国策に利用されたことは否定できない。

 小川は1943年に亡くなり、84年に出身地である春日居町の名誉町民1号に認定された。「その功績をたたえ、後世に伝えるべく」、91年に春日居郷土館に小川正子記念館が併設され、2002年には生誕100周年記念事業展が開催されている。

 現在も特別展示室に彼女が用いた医学書、日記や書簡、医療用具などが展示されている。入り口には愛生園で患者に時を知らせた「恵の鐘」の原寸大レプリカがあり、存在感を放つ。「救らい事業」に熱心で、園に手元金を贈った貞明皇后(大正天皇の后)の歌が刻まれている。

 結核になって郷里に戻った小川が療養した家屋も移築され、「小川正子女史記念碑」もある。春日居町を代表する人物として手厚く顕彰されている。

 見学者には町の職員が丁寧に案内してくれるが、たたえるだけではなく、別の説明も必要ではないか。

 強制隔離は人間の生きる権利そのものへの侵害であったこと。戦後、薬によって完治する病気になってからも、非道な隔離政策が続いたこと。そして、そのために今も残る差別と偏見を、私たちが消し去らねばならないことを。(女性史研究者・江刺昭子)

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