戦争末期273人犠牲 忘れられた沈没事故に祈り 淡嶋神社呼び掛け、東京からも遺族慰霊

近海丸事故直後に犠牲者らが運び込まれた海岸で手を合わせる宮崎さん=長崎市小江町

 太平洋戦争末期の1944(昭和19)年12月24日、長崎市小江町沖で連絡船が沈没し、273人が犠牲となった。大きな遭難事故でありながら、これまであまり知られておらず、地元の神社でひっそりと慰霊が続けられていた。それを知った東京在住の遺族が事故から75年の節目に参列。神社も他の遺族を探して呼び掛け、計約40人と住民が24日、集まった。
 式見郷土史などによると、沈没したのは長崎交通船が長崎港大波止-長崎市三重地区(当時は西彼三重村)間で運航していた木造旅客船「近海丸」(26トン)。三重から式見を経由し、途中で転覆した。乗客乗員338人のうち助かったのは65人だけ。定員80人だが約4倍の人数と荷物を積載していたため、荒波を受け右舷に傾きバランスを失ったとされる。犠牲者には疎開中の子どもたちも含まれていた。
 東京都清瀬市の宮崎徹郎さん(87)は当時13歳。既に父を亡くし、長崎市内で母シズさん=享年(35)=と2人で暮らしていた。シズさんは式見で芋や落花生を調達した後に乗船した。宮崎さんは「陸路で帰るつもりが、急いで用件を済ませたので出航に間に合ってしまった。遺体が自宅に運び込まれた時は悲しくて直視できなかった」と振り返る。自身は佐賀の親族に引き取られ、その後、紳士服の仕立職人となった。
 一方、長崎市向町の淡嶋神社境内には、事故後50年たった94(平成6)年に地元有志が建立した「近海丸殉難者之碑」がある。松本亘史(のぶちか)宮司(68)は毎年1人で慰霊祭を続けていた。
 宮崎さんは戦病死した兄について靖国神社に照会していた。そこで淡嶋神社の慰霊碑を知り、昨年は松本宮司と会った。折しも75年の節目に当たり、松本宮司は自治会を通じて遺族の消息を調べ、慰霊祭への参列を呼び掛けた。
 24日、同神社には住民も含め計約60人が集まり、祭壇に玉串をささげた。宮崎さんは献花し涙を拭った。終了後、松本宮司の案内で小江町の海岸を訪ねた。当時はここで住民が生存者を介抱し、遺体も運び込まれた。その中に母シズさんもいた。
 宮崎さんは海に向かって手を合わせ、「今日まで生きていて良かった。多くの方に集まっていただき母も喜んでいるはず」と感謝の言葉を述べた。
 事故に関する文献資料が少なく、地元でも史実を知らない人が少なくないという。松本宮司は「75年たとうと遺族の思いは変わらないと実感した。私たちも忘れないよう慰霊を続けていければ」と語り、協力者が増えることに期待を寄せた。

近海丸が遭難した海を背に祭壇が設けられ、参列者が玉串をささげた=長崎市向町、淡嶋神社

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