豊田は西鉄全盛期期の中心打者、石毛は西武黄金時代のチームリーダー
西武ライオンズは、金子侑司外野手が来季から背番号を「8」から「7」に変更すると発表した。西武の背番号「7」は歴代スピード感のあるスター選手がつけてきた。
()は「7」をつけていたシーズン。成績は「7」をつけていた期間だけ(敬称略)。
鬼頭政一(1950-1951)152試455打98安6本35点7盗 打率.215
八道勉(1952)55試125打28安1本12点7盗 打率.224
豊田泰光(1953-1962)1290試4527打1280安190本665点192盗 打率.283
バーマ(1963-1967)690試2526打635安82本267点20盗 打率.251
浜村健史(1968-1970)376試885打197安13本57点17盗 打率.223
伊原春植(1971-1975)255試597打146安10本50点5盗 打率.245
広瀬宰(1976-1979)339試837打197安8本62点3盗 打率.235
鴻野淳基(1980)一軍出場なし
石毛宏典(1981-1994)1726試6329打1806安235本835点242盗 打率.286
ジャクソン(1995-1996)254試995打276安39本132点19盗 打率.277
松井稼頭央(1997-2003)960試3961打1254安147本525点235盗 打率.317
片岡易之(治大)(2005-2013)937試3555打963安48本317点271盗 打率.271
脇谷亮太(2014-2015)214試440打123安5本42点8盗 打率.280
松井稼頭央(2018)30試39打6安0本2点1盗 打率.154
松井稼は1997年~2003年、復帰した2018年に「7」をつけた
西武ライオンズは1950年に「西鉄クリッパーズ」として創設され、翌年「西鉄ライオンズ」となる。初代の背番号「7」は戦前からユーティリティプレイヤーとして活躍した鬼頭政一。鬼頭はのちに「太平洋クラブライオンズ」(1976年)、「クラウンライターライオンズ」(1977年)の監督も務めた。
八道(やじ)勉は、ハワイ出身の日系二世内野手。1953年からは中西太、大下弘とともに全盛期の西鉄ライオンズの中軸打者として活躍した豊田泰光がつける。豊田が国鉄に移籍すると、メジャーリーガーのジム・バーマがつける。バーマは二塁手として主に守備で貢献した外国人選手。
浜村健史(孝)も内野守備の名手として鳴らした。伊原春植は三塁手。のちに西武ライオンズの監督も務めた。広瀬宰はロッテ、中日を経てライオンズに。守備が光った遊撃手だった。
鴻野淳基は名古屋電気高から1979年ドラフト1位で西武入団。いきなり「7」をつける。翌年に石毛宏典が入団すると「38」に変更となった。「7」での一軍出場はなし。のちに西武、巨人で活躍した。
石毛宏典は1980年にプリンスホテルからドラフト1位で入団し、1年目から3割を打ち新人王。走攻守揃った名選手として活躍した。ライオンズの背番号「7」では最多の1806安打を記録した。
ダリン・ジャクソンもリードオフマンとして活躍。
松井稼頭央はPL学園からドラフト3位で入団。3年連続盗塁王を獲得するなどイチローが移籍したあとのパ・リーグをけん引したスター選手。入団4年目の1997年から、2004年にMLBに挑戦するまで「7」をつけた。
2005年から「7」をつけた片岡易之も4年連続盗塁王になった韋駄天。2014年に巨人にFA移籍すると、その人的補償で巨人からやってきた脇谷亮太が2年間「7」をつける。
2018年は、15年ぶりに西武に復帰してこの年限りで引退した松井稼頭央が再び「7」をつけた。
金子侑司は今季2度目の盗塁王となった。「7」を継承するにはふさわしい選手と言えるだろう。(広尾晃 / Koh Hiroo)