残したことをかみしめたい

 小さな女の子が祈りの言葉を唱えている。「日々のパンをめぐみたまえ」。それから声を潜めて何か言ったが、聞き取れない。何て言ったの? 母親が尋ねた▲怒っちゃいやよ、ママ。こう言ったの。「パンの上に、いっぱいバターをつけてくださいましって」。アンデルセン「絵のない絵本」(角川文庫)の一節にある。か細い声にこそ、心からの願いがこもる時もあるらしい▲13億人ものカトリック信者の最高指導者と聞けば「威厳」の一語しか思い浮かばないが、その方は人を優しく包み込み、人類の過ちを告発して、日本から帰国の途に就いた。その祈る姿と、願いに耳を傾ける姿は、数知れない人の心に刻まれただろう▲東電福島第1原発事故で福島県から自主避難した高校生、鴨下全生(まつき)さん(17)はローマ教皇フランシスコと抱き合った。避難した東京の小学校でいじめに遭い、中学校では出身地を伏せたことで友人にも気持ちを明かせなかったという▲誰か助けて。誰か分かって。声を潜めて願ったに違いない。救いを求めて教皇に手紙を書いたのがきっかけで3月に謁見(えっけん)し、東京で再会した▲青年は今、体験を語り、被ばくの脅威をなくそうと訴える。か細い声に耳をそばだてる人がいたからだろう。声を聞き、希望を語ったその人が残したことをかみしめたい。(徹)

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