西武新施設建設に携わった広池氏は異色の経歴 一度野球を離れて広島にテスト入団

球団本部長補佐の広池浩司氏【写真提供:埼玉西武ライオンズ】

立大卒業後に全日空に就職、羽田空港でカウンター業務に従事

 2年連続パ・リーグ制覇を成し遂げた埼玉西武ライオンズ。本拠地メットライフドームエリアは現在改修工事が進められており、今年6月には新しい選手寮の若獅子寮、室内練習場のライオンズトレーニングセンターが完成した。この施設の建設にあたり、主に選手目線で携わった球団本部長補佐の広池浩司さんは大学卒業後に一度野球を辞めて全日空に就職。その3年後に広島にテスト入団した異色の経歴を持つ。

 広池さんは立大で外野手として1年生からリーグ戦に出場。4年時には主将を務めてチームをけん引した。だが、ドラフトで名前が呼ばれることはなく、卒業後は野球を辞めて全日空に就職した。
 
「大学では練習にも一生懸命に取り組み、やり切った感があったので『これでプロになれないなら厳しいな』と思いました。ピッチャーなら社会人を経てプロ入りも考えられましたが、野手としては見切りがついていた。なので、社会人で野球を続ける意味を見出せませんでした。野球の次に好きだったのが飛行機で、子供の時から用事もないのに羽田空港に行って飛行機を見たりしていたので、就職活動をして全日空に入社しました」

 入社後は羽田空港のカウンターでチェックインやチケットの発券業務に就いたが、プロ入りしたかつてのライバルたちが遠征の際にカウンターにあいさつにやって来た。気を使って顔を見せてくれるのだが、広池さんにとってはそれが悔しくて仕方がなかった。そして社会人2年目の秋、会社の休みを利用して広島の入団テストを受けに行った。

「野手としては無理なのがわかっていたので、ピッチャーとして勝負をかけました。小学生の時はピッチャーだったのですが、高校、大学では一切やっていませんでした。でも、その年齢ではピッチャーじゃないと受からないと思いました。1次試験に合格して、秋のキャンプに1か月間参加するように言われましたが、参加するには仕事を辞めなければいけない。不合格になるかもしれませんでしたが、迷わず仕事を辞めてキャンプに参加しました」

1998年ドラフト8位で広島入団、12年間プレーして248試合に登板

 全日空での仕事は楽しくて充実していた。しかし「プロ野球選手になる」という子供の頃からの夢が叶わなかったことで、心のどこかに寂しい思いを抱えていた。「このままではいけない。1回挑戦しないと」という気持ちが広池さんを後押しした。そして見事に秋のキャンプで合格を掴んだが、入団は先送りになった。

「その年のドラフトで指名する選手は8人が決まっていて、テストで入ってくるなんて誰も思っていないので、枠がありませんでした。『仕方ないからドミニカに行ってこい』と言われ、向こうで1シーズン投げて再び秋のキャンプに参加しました。入団前に2回も秋のキャンプに参加しているんです。そして98年にドラフト最下位の8位で入団しました」

 それから12年間、37歳まで現役を続け、貴重な左腕として通算248試合に登板した。引退後は出身地の埼玉に戻り、西武で打撃投手や副寮長、ファームディレクター補佐兼ファーム編集室長を歴任。15年から球団本部チーム戦略ディレクターを、19年から球団本部長補佐を務める。様々な角度からチームに携わってきたが、選手たちには野球ができる幸せを感じて欲しいと願っている。

「本当に野球から離れた経験がある人は、コーチを含めても意外といません。野球ができなくなった時の心境、野球のすばらしさは誰よりも伝えられると思っています。選手たちは一番好きなことをやれている。その幸せは絶対に感じなければいけない。誰よりも幸せなところにいることを自覚してほしいと思っています」

 いろいろな人の話を聞いて成長してもらいたいと、新しい選手寮には選手同士がコミュニケーションを取れる場所を多く作った。「野球ができる喜びを感じながら、ここで活躍してほしい」。その思いを胸に、広池さんは第二の人生も野球に携われていることに感謝しながら、選手たちのサポートを続けている。(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)

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