令和元年度 第73回芭蕉祭(3)

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◆コラム 奥の細道
元禄2(1689)年、深川(東京都江東区)を出立した芭蕉翁は、東北・北陸を巡り、大垣(岐阜県大垣市)で約5カ月にわたる2,400kmの旅を終えました。この旅をまとめたものが紀行文「奥の細道」です。
「奥の細道」は、旅を終えた数年後、実際の出来事に創作を織り交ぜて記されました。
作品には、旅を終えてから詠んだ句や事実と異なる話が登場します。
例えば、旅立ちの日、見送りの人々と別れる千住で、
・行春(ゆくはる)や 鳥啼魚(とりなきうお)の 目は涙(なみだ)
の句を詠んだと記されていますが、実際に詠んだ句は
・鮎の子の しら魚(うお)送る 別哉(わかれかな)
でした。なぜ、実際に詠んだ句ではなく、「行春や」の句としたのでしょうか。それは、作品の最後に登場する句に関係があります。
巻末の句は、旅の終着点である大垣で、現地の人々と別れる際に実際に詠んだ、
・蛤の ふたみにわかれ 行秋(ゆくあき)ぞ
という句です。
芭蕉翁は、旅の終わりの場面で「行秋ぞ」と詠んだため、旅立ちの場面では、「行春や」を入れた句を詠んだことにしたほうがよいと考え、旅の後で作品のために新しく詠んだとされています。
次に、「卅日(みそか)、日光山の梺(ふもと)に泊(とま)る。(以下略)」の場面は、事実とは異なります。
「卅日(みそか)」とは、旧暦3月の末日、すなわち30日を表します。しかし、旅をした元禄2年の3月は、29日までしかなかったことが確認されています。
作品に架空の30日の話が登場するのは、話の流れを変える必要があったからではないかと考えられています。
本来の「卅日(みそか)」である前日の29日には、和歌の名所として知られる室(むろ)の八島(やしま)を訪れ、その土地の祭神について触れています。翌4月1日は、日光山を参詣し、徳川家康を祭神として祀る東照宮を紹介しています。どちらも祭神にまつわる内容であるため、間に日光山の梺に泊まったという架空の1日を挟むことで、同じような話を連続させない工夫をしています。
芭蕉翁は全体のバランスや話の流れなどを考慮して、実際の旅に創作を織り交ぜ、紀行文「奥の細道」を完成させました。

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