ホークス捕手の系譜に新たな歴史 甲斐が背負う背番号「19」を振り返る

ソフトバンク・甲斐拓哉【写真:藤浦一都】

野村克也がつけた栄光の背番号「19」を来季から背負う

 ソフトバンクは28日、2020年シーズンから甲斐拓也捕手の背番号を「62」から「19」に変更すると発表した。「19」は、ホークスでは不世出の大捕手、野村克也がつけた栄光の背番号だ。

 ソフトバンクの前身である南海時代からの背番号「19」を見ていこう。()はポジションとつけていた期間。成績は「19」の期間だけのもの。

政野岩夫(投1938秋-1940)109試34勝50敗792回2/3 防御率2.20
神田武夫(投1941-1943)113試49勝35敗716回2/3 防御率1.36
大橋一郎(投1946)1試0勝0敗2回 防御率0.00
武末悉昌(投1949)51試21勝17敗333回1/3 防御率3.13
田中達夫(投1950-1951)30試4勝4敗90回2/3 防御率2.78
筒井敬三(捕1952-1955)237試531打125安8本50点7盗 打率.235
野村克也(捕1956-1977)2882試10198打2843安648本1952点115盗 打率.279
山内孝徳(投1981-1992)319試100勝125敗5S 1842回1/3 防御率4.43
大越基(投1993-1994)13試0勝0敗0S 27回1/3 防御率.3.95
(外1993-1994)8試3打0安0本0点1盗 防御率.000
ニコルズ(投1997)3試0勝0敗0S 3回 防御率3.00
永井智浩(投1998-2005)96試28勝21敗0S 439回2/3 防御率4.67
森福允彦(投2007-2016)384試16勝14敗18S 125H 330回1/3 防御率2.45
ミランダ(投2018-2019)26試13勝6敗0S0H 133回2/3 防御率3.37

 日本では「18」がエースナンバーとされる。その前後の背番号である「17」や「19」も投手が付けることが多かった。南海は1938年秋シーズンからペナントレースに参戦したが、エース格だった政野岩夫が初代「19」。アンダースローだった。のち中野正夫と改名。戦死した。

ミランダの退団によって野村以来43年ぶりに捕手として「19」を付ける

 政野が応召すると神田武夫が「19」をつける。神田は沢村榮治を輩出した京都商の出身。甲子園で活躍し、南海でも25勝、24勝と大車輪の活躍だったが、現役中に肺結核で病死した。戦後、大橋一郎が1年だけ「19」をつけ、1949年にはアンダースローの武末悉昌(たけすえ・しっしょう)が入団し「19」に。大阪タイガースとの大争奪戦の末に入団し21勝を挙げたが翌年西鉄に移籍。

 右腕投手の田中達夫が2年付けた後に、捕手の筒井が「19」に。筒井は1949年、巨人との試合中に三原脩監督に殴られるという「三原ポカリ事件」の当事者となった。筒井は1955年に新球団高橋ユニオンズに移籍。

 1956年、野村克也が「60」から筒井の背番号を継承する形で「19」をつけた。テスト生同然で入団し、1955年は1軍出場がなく解雇の恐れさえあった野村だが、この春のハワイキャンプでのまじめな練習風景が、山本一人(のち鶴岡一人)監督の目に留まった。山本監督は記者団に「キャンプの収穫は野村だけや」と語ったとされるが、野村は22年にわたって「19」をつけて活躍。それ以前も「19」をつけた捕手はいたが、野村の長期にわたる活躍で「19」は捕手の背番号というイメージが広まったといえよう。

 野村が退団すると山内孝徳が「19」をつける。山内は南海がダイエーに身売りされ、本拠地も福岡に移転した時期にエースとして活躍した。

 その後は1992年のドラフト1位大越、ニコルズ、永井と投手が「19」をつける(大越はのち外野手に転向)。最近も、左腕セットアッパーの森福、先発投手のミランダがつけていたが、ミランダの退団によって、甲斐拓也が野村以来43年ぶりに捕手として「19」をつけることとなった。

 全くの無名から這い上がって不動の大捕手となった野村克也と、育成選手から競争に打ち勝って正捕手となった甲斐拓也。二人のキャリアは似通っている。ホークスの「捕手の系譜」に新しい歴史が刻まれた。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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