阪神・近本光司の記録更新が注いだ光。長嶋茂雄の偉大さと「記録の神様」

61年ぶりにリーグ新人記録を更新する159安打を放ち、36盗塁で盗塁王にも輝いた阪神タイガースのルーキー、近本光司。11月16日に発表された最優秀新人賞は、高卒2年目、36本塁打、96打点をマークした村上宗隆(東京ヤクルトスワローズ)に譲ったものの、その活躍は大きなインパクトを与えた。近本の記録更新とともに注目を浴びたのが、前記録保持者、長嶋茂雄氏の新人時代だった。「記録よりも記憶に残る」と言われた“ミスター”が残した記録と、長嶋の功績にも光を当てた“記録の神様”の知られざるエピソードとは?

(文=小林信也、写真=Getty Images)

近本の記録更新で光が当たる「新人・長嶋」の偉業

今年9月、阪神のルーキー・近本光司が154本目の安打を打ち、新人年間最多安打記録を更新した。最終的に積み重ねた安打の数は159。近本選手の活躍をきっかけに、従来の記録保持者だった長嶋茂雄の偉大さに再び光が当たった。

近本は136試合目に記録を更新したが、長嶋が新人だった1958年には130試合しかなかった。日本記録は引退後『プロ野球ニュース』のキャスターとして人気を博した佐々木信也(高橋ユニオンズ)の180安打。佐々木の記録が生まれた1956年は154試合が行われている。3位の笠原和夫(南海ホークス)は1948年に140試合で160安打、3位は2年前の源田壮亮(埼玉西武ライオンズ)で、143試合で155安打を打っている。いずれの記録も優劣は付けにくいが、長嶋の記録の中身の濃さは、他の観点からも絶賛できる。

その年、新人・長嶋がどんな投手と対戦して153本を積み重ねたか。
昭和33年のセ・リーグ投手、防御率ベスト10を見ると、トップは金田正一さん(国鉄スワローズ)で防御率1.30、登板56試合で31勝14敗。完投22試合、完封が11もある。投球回数332回で奪三振311、失点わずか63。単純に計算すれば、「万年最下位」と呼ばれた弱小・国鉄スワローズのマウンドに立って、5回で1点しか許さなかった。こんな投手はいまの時代にはいない。唯一比肩するとしたら2014年の田中将大投手くらいだろう。

2位の藤田元司(読売ジャイアンツ)は防御率1.53、29勝13敗。以下、3位、大矢根博臣(中日ドラゴンズ)1.61、4位、小山正明(阪神タイガース)1.69、5位は杉下茂(中日ドラゴンズ)1.78、6位、秋山登(大洋)2.51と続く。大矢根はプロ入り7年目のオフに交通事故で重傷を負い、わずか9年で引退したため知名度は低いが、全盛期の5年間で66勝をマーク。長嶋入団の前年にはノーヒットノーランも達成している。
そのほかの小山、杉下、秋山は、オールドファンには説明するまでもないレジェンドたちばかり。「投げる精密機械」と呼ばれた小山は通算320勝。杉下は「魔球」フォークボールを日本で最初に駆使し、歴史上最初にアメリカ野球界から熱心に誘いを受けた名投手だ。秋山は大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)のエースとして長年君臨したアンダースロー。もちろんいまも素晴らしい投手たちがそろっているから比較はしないが、シーズンを通してこれほど力強い投球を続けた各チームのエースを相手に長嶋は戦っていた。

「“記録”の王、“記憶”の長嶋」に異を唱えた“記録の神様”

「王は記録を残し、長嶋は記憶を残した」
ONの現役終盤、メディアもファンもよくそんな表現でONをそれぞれたたえた。それは、通算ホームランや首位打者獲得数、3冠王など、記録で見ると王貞治にすっかり越された感のある長嶋茂雄を擁護するためにひねり出した絶妙な麗句だった。それほど「燃える男・長嶋」「絵になる男・長嶋茂雄」はファンを強烈に魅了した。言い換えれば、いくら記録で王さんが長嶋を抜いても、「人気や存在感で王は長嶋を抜けない」といったジレンマも感じられた。

だが、これに異を唱えていたのが、“記録の神様”と呼ばれた宇佐美徹也さん(故人)だった。報知新聞で長く「記録記者」という新しい分野を担っていた宇佐美さんは、「枕になる」とも言われた分厚い労作『プロ野球記録大鑑』などの著書でも知られる。

単純な数字だけで記録を並べるのではなく、野球本来の醍醐味を表現できる切り口を探し、選手たちの個性や活躍ぶりを数字で浮かび上がらせる功績を残した、まさに神様的な存在だ。

宇佐美さんの分析にかかると、「長嶋も立派に記録を残していた」。
その実際は、『ON記録の世界』などの著書にも詳しい。
例えば当時、得点圏打率などの記録は一般的に注目されなかった。「チャンスに強い男」という漠然としたイメージはあったが、これを数字で証明するため、宇佐美さんは丹念に全選手の記録を集計し、長嶋の勝負強さを数字で証明した。まだパソコンが普及する以前だから、完全手作業で、気の遠くなる作業を宇佐美さんは延々と積み重ねておられた。

もう35年以上前、雑誌『ナンバー』のスタッフだったころ、私は宇佐美さんから連載コラムの原稿を頂戴するため、紀尾井町の文芸春秋から徒歩数分のところにあった隼町の報知新聞社まで月2回訪ねていた。そのたび、隣の喫茶店で話を伺うのが楽しみだった。 西武・平井克典投手が藤川球児に並ぶ史上2位タイに並んだことで注目された「シーズン最多登板記録」の話題に接して、あの日、宇佐美さんが喫茶店のテーブルに広げた手紙のコピーをすぐに思い出した。

記録の裏にあるドラマもまた野球の面白さ

シーズン最多登板記録は、1961年に稲尾和久投手(西鉄)が作った78試合が長く日本記録としてさんぜんと輝いていた。ところが、投手の分業制が進み、中継ぎやワンポイント・リリーフが一般化した1984年、阪神・福間納投手が稲尾の記録を破る勢いで登板を重ねた。宇佐美さんは気が気でなかった。福間は平均1試合1.5回程度で退くスタイル。1961年の稲尾は、先発完投、ロングリリーフも含め、その年42勝14敗。404回を投げての78試合だ。

もちろん後に、その登板過多が投手寿命を縮めたと批判されるのだが、それだけに宇佐美さんは、「簡単に破ってほしくない」とジリジリしたのだ。宇佐美さんは思い余って「これ以上、福間を登板させないでほしい」と嘆願する手紙を阪神・安藤統男監督に宛ててつづる。
その手紙の写しを、宇佐美さんが喫茶店のテーブルに広げ、私に読ませてくれたのだ。その檄文に触れたこちらまで胸の動悸が高鳴り、安藤監督に声を届けたい気持ちに駆られた。

宇佐美さんは思いとどまった。書いた手紙を、会社の机の抽斗にしまい、ジッと我慢する。一新聞記者が、球団の監督采配に介入するような行動は慎むべきだとの思いからだった。しかし、そんな宇佐美さんの切実な気持ちをあざ笑うように、来る日も来る日も安藤監督は福間の登板を告げる。いよいよあと数試合となって、たまらず宇佐美さんは手紙をポストに入れた……。祈る思いでいると、あと1試合、77試合まで数字を重ねたところで、福間はマウンドに上がらなくなった。そして、そのままシーズンを終えた。優勝を決めた広島カープに34.5ゲームもの大差をつけられ4位だったこともあるだろう。

その後、2005年に藤川球児(阪神)が80試合に登板し、記録保持者となった。さらに2007年には久保田智之(阪神)が90試合にまで伸ばす。だが、パ・リーグの記録はずっと破られなかった。今年ようやく平井がその聖域を超えたわけだ。

こんな話をすれば、いろいろ賛否両論も出るだろう。それがまた野球というゲームを語り合い、かみしめあい、深く愛する糸口になるからこそ野球は面白い。
記録は抜かれてまた価値が深まるとも言われる。数字の向こう側に、どんなドラマ、どんな思いが秘められているか。語ること、探ること、伝えることも野球の重要な楽しみだ。
近本光司、平井克典、2人の若者のおかげで、久しぶりにかつて身体の中にずっと渦巻いていた野球への情熱に包まれた。

<了>

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