ケアとPR:人生会議ポスター炎上に思うこと。

(以下に、今回話題となった人生会議ポスターの図柄がサムネイル表示されます。見たくないという方は、この先を読まないか、高速で画面をとばすかなどしてください)

 

 

 

 

 

 

僕が厚生労働省に講演に行く日の朝に、その騒ぎはおこった。

なんてタイムリーに、僕の専門分野に近いところに火種を投げているんだ…と感じ、こんなツイートをして霞が関に向かう(講演のついでに、炎上に対してご意見くださいと、先方から連絡も入る)。

その間にも、ポスターを批判する声が様々に集まってきて、整理するのに一苦労だったが、厚生労働省での講演を終えたのち、今回の担当の方へ僕が伝えたことは2点。

①ACP(人生会議)の本質的な部分が誤解されたまま広まることは害が大きい
②あのデザインを病院を含む公共の場で見させられることで、いま闘病中の方の恐怖を煽ったり、遺族の方のフラッシュバックにつながる

②については、僕個人の意見というよりは実際の当事者・支援者から伝えられたこと。それは「確かに」と感じたので情報共有した。
①については、ACPはそもそも「死」だけにフォーカスしたものではなく、プロセスであり、死のイメージを強調して伝えられることで、「死ぬ前に伝えたいことを今から周囲に伝えるべき」という誤ったメッセージにつながることを懸念した。
実際、医療現場においては既に、「間違ったACP」で患者が苦しんでいる例が上がってきている。「どこで死にたいですか」「最後に人工呼吸器つけるかつけないか決めてください」というのがACPだと思っている医療者。私たちは、「そうではなく、価値観をシェアするために対話をしましょう(そのテーマが療養場所や延命であってもよいが)」ということを日々啓発しているが、あのポスターはそれに逆行する。間違った前提に基づくクリニカルターム(用語)を啓発されるのはたまらない。ACP=人生会議というなら、誤解無きように広めてほしい、ということを伝えたかった。

ただ、担当した厚労省の方は、決してACPのことを理解していなかったわけではなかった。「ACPを知っている、また実行している国民は約3%に過ぎない」、という調査結果を受け、無関心層(つまり病気になったり大切な人を失ったりした経験がない方々)へどうにかして広められないのか、ということを考えた結果だということだった。
僕のほうで「もう少しポジティブなイメージで広めるというのではダメだったのか」と提案してみるも「多くの人に届けられるインパクトに薄くなる」という回答と共に、苦渋の表情を浮かべていたのが、この問題の難しさを物語っていた。彼らも悩んでいるのだ。

死について考える、もアウトなのか?

結果的に、SNSを中心とした抗議の声により、厚労省は迅速な判断を下した。ポスターの配布は中止となり、Webサイトからも消される事態になった。

そして次第に「中止撤回までさせたのは良くなかったのではないか」「表現規制が強すぎる」という声もあがってきた。あのポスターの何が良くないかがわからない、という声、そして「死について考えることは良いことなのに、それがつぶされた」として、「広告」という性格上、広まるためには一歩踏み込んだ表現での啓発が求められるのでは?という批判だ。

「死」というものをタブー視し、見ないようにし、結果的に「自分や家族が死ぬはずがない」という信念を持ち続けてきた結果、実際の死の間際になって「こんなはずではなかった」となる例を僕たちは山のように見てきたのは事実だ。
僕の祖父も突然死だった。地元でちょっとした名士で、信仰も篤かった祖父の死に、祖母や母(長女)が「お父さんは本当はどうしてほしかったのか」「どの方々にご連絡すればいいのかわからない」と途方に暮れていたことを覚えている。
人は死ぬ。
そのことを考えておくこと、話し合っておくことが大切なことは確かだ。ただ、「個人レベルでは」だ。

ケアとPR

僕は厚労省の方々と話をしていた時から「そもそも、健康成人に対してACPを広報する必要があるのか?」というところから考えていた。もう少し細かく言えば、広報はしたほうがよいとしても、その最適解があのようなポスターなのかどうか、ポスターで広めるものなのか、という疑問である。

国が先頭に立ってポスターで広く国民に啓発するということは、それを国のレベルで公衆衛生的アプローチで広めるということだ。そこには大義名分が必要だと僕は思う。
「死について考えることが大多数において明らかに良いこと」なのであれば、多少の犠牲をもっても、世に広めることは仕方ないのかもしれない。
しかし、あの広告のメインターゲットである健康な成人が、「死について家族と話し合う」ことは医学的アウトカムが改善する何のエビデンスもない。だから健康成人に対するACPについては「代理意思決定者を決める」「価値観をシェアする」くらいに留めるものだとされている(健康成人がACPそのものについて知っておくことについては有意義という報告はある)。だとしたら、国が「本来のACPでもない」手法(つまり健康成人に対して死亡直前期を想定させて話し合いを促すこと)を用いて広報を行うことには何の大義名分もないのではないだろうか。
具体的な死を連想させるあのポスターによって傷ついたり、家族の死の瞬間がフラッシュバックして健康被害を被る方々、もっと言えば歪んだACPの伝わり方によって医療者から傷つけられる方々の犠牲が報われないと僕は考える(念のために言っておくが、生命を脅かす病を抱えた方に対する「死を見据えての対話のプロセスを促していくこと」は有効性のエビデンスがある)。

また、今の日本において、かかりつけ医がほとんどいない(つまり頼れない)現状で、健康成人が家庭でその家族と死の話を始めるというのが想像できない。本来のACPは医療者と家族と本人で価値観をシェアするもののはずである。
もちろん中には、医療者が間に入らなくてもそういった話を始められる人がいるのは事実だし、それがその家庭ではいいことであるならそれは良い。でも国から「するべき」と言われても、例えば息子の立場で親になんて言えば…そんな話はできない…と考えている方もいることも事実。そういう痛みを乗り越えるべきだと、国は言いたいのかもしれないが、それはやはり本来のACPではないので、それが今回のポスターにおける「人生会議」とイコールだと言われると、僕としては違うと言いたくなる(いや、そもそもACP≠人生会議なんです、と言うならそれもいいだろうが)。

もちろん正しいことなら批判があっても、誰かが傷ついても進め続けるという選択肢はある。今回、厚労省もこの手法を取ってもよかったかもしれない(僕は勧めないけど)。丁寧に自分たちの理論を構築し、国民に説明し、批判はあっても進めるという意思を見せるべきだったという意見もあった。
例えばHPVワクチンはそう。おそらく副反応の多くは関連性に乏しいのだけど、あれを進めることで傷つくという人はいるだろう。だけど、HPVワクチンを広めないともっと大変なことになる。それはどちらも事実。他にも、尊厳死法案や安楽死制度だってそうかもしれない。議論をすることは大切だが、批判を恐れていては前に進めない。
一方で、健康成人に死を見据えたACPを広めることは有効性を示す何のエビデンスもない。健康成人にいきなり一足飛びに「死を見据えて」話をしなさいとなっても、具体的な話にならないことはこれまでの研究が示している。それでも「これは正しい」と前に進めるのか?
もちろん、有効性に乏しかろうが、無害なら広めてもいいとは思うのだが・・・
・無害にするためにもっと優しい表現にする→それなら広がらない→税金の無駄(経済的毒性)→だったら始めからしないほうがいいんじゃない?
・だったらやはり過激な表現のほうが→傷つく人がでる→でもアウトカム改善しない→だったら始めからしないほうがいいんじゃない?
と考えてしまう。健康成人に対してACPを啓発するなら、死を想定した話し合いにもっていくことはそもそも意義に乏しく、もっと別の啓発をすべきではないだろうか。

ケアとPRの方向性:転換

「人はいずれ死を迎える」ということを啓発したいなら、ACPと切り離して、そういったテーマの映画を使ってイベントを企画するとか、アート展をやるとか、他に転換すればいくらでも啓発の仕方がある。死を想うことを啓発していくのは大事なので、その点は抗議に批判をした人たちは正しいと思うし、というか最初に抗議した方々(私も含め)もそれは同じ思いだろう。ただ、「それがACPなのです!」と言われるなら「違いますよ!」と僕は言っているだけ。

いま僕は、早期からの緩和ケアをアートで表現するイベントをある地方で実施できないか、という企画を考えている。
その中にはもちろんACPもテーマのひとつとして含まれるわけだけど、もちろんアートで表現する。こういう、誰も傷つかないけど、キャッチ―でワクワクする、さらに参加した人も参加していない人もみんなが考えるきっかけになるというのが「ケアとPR」のあるべき姿のひとつなのではないかと思っている。
ひとつひとつはゆっくりでもいい。いろいろな伝え方があるよ、ということを僕は言いたいなと思う。

※ちなみに冒頭の写真は金沢で行われた「FUN WITH CANCER PATIENT」というリレーショナルアートの展示。

西 智弘

川崎市立井田病院 かわさき総合ケアセンター腫瘍内科/緩和ケア内科 2005年北海道大学卒。家庭医療専門医を志し、室蘭日鋼記念病院で初期研修後、緩和ケアに魅了され緩和ケア・腫瘍内科医に転向。川崎市立井田病院、栃木県立がんセンター腫瘍内科を経て、2012年から現職。一般社団法人プラスケアを立ち上げ「暮らしの保健室」の実践や、社会的処方の実践論を研究する「社会的処方研究所」の開始など、病気になっても安心して暮らせるコミュニティを作るために活動している。

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