走り続け なくした「普通」 第1部 そこにある病理 労働(2)失業

夜のパーキングエリアに並ぶトラック。広い駐車場が見つからなければ、走り続けるしかない=佐野市内(本文と写真は関係ありません)

 真冬の深夜だった。眠気覚ましにアイスコーヒーを飲みながらハンドルを握っていた記憶はある。目の前の電柱に気付いた直後、激しい衝撃とともにエアバッグが開いて視界が真っ白になった。

 幸いかすり傷で済んだが、乗っていたトラックは電柱に突っ込み大破した。

 「このぶつかり方じゃ、まず助からないよ」

 そう漏らす警察官には、居眠り運転による事故とは言えなかった。しかも初めてのことではないとは-。

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 県北に住む森田義則(もりたよしのり)さん(50代)=仮名=が運送業界に入ったのは40代に差し掛かろうとしていた時。専門学校を卒業後、県内の大手の部類に入る民間企業に入社した。ゴルフ場開発ブームなど県内は好景気に沸き、業績も順調だった。結婚して2人の子どもに恵まれ、マイホームも建てた。順風満帆だった。

 ところが、30代半ばで会社が倒産。約100人の従業員とともに、解雇が告げられた。年齢的に選べる次の職業は限られていた。

 異変を感じたのは、ドライバーになって2年が過ぎたころ。血液の数値が悪化し、まめに行ってきた献血ができなくなった。

 この頃の生活は、午前2時に家を出て帰宅は夜11時。倒れるように寝て、また家を出る。多い日の走行距離は500キロに及んだ。走れば走るほど手当が付いた。だから、盆や正月も仕事を引き受けた。食事は、運転しながらでも食べられるパンやおにぎりに偏った。

 過重労働に限界を感じ、今は車中泊をしながら物流拠点を渡り歩く生活に変えた。夜、運転席の後ろの寝台に体を押し込む。何度も目を覚ましながら朝を迎え、凝り固まった体に湿布を貼って次の目的地へ向かう。帰宅するのは土曜の仕事を終えてから。それでも家に帰っていた頃よりずっと楽だった。

 時々考える。「倒産さえなかったら…」。かつての給料は10万円以上高かった。やりがいも大きかった。何より、定時で帰るという「普通」の暮らしがあった。

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 バブル崩壊後、企業の大型倒産が相次ぎ、街には失業者があふれた。2000年代初頭には失業率が5%を超え、正社員で働くことは難しさを増した。

 高血圧が続いた森田さんは、10年ほど前から宇都宮市内の医療機関に通っている。

 「本人が一度来て、その後は奥さんが代理、代理、代理…」。主治医の関口真紀(せきぐちまさのり)医師(64)は渋い表情でカルテに目をやる。仕事を休むと日給分減るため、年1回、トラックを車検に出すタイミングでしか病院に行けない。

 脂肪肝や高血糖も懸念され、ストレスによる顔面神経まひの後遺症がある頬に手を当てる。そんな森田さんの隣で妻(50代)が「病気なら休んでほしいし、有給も使わせてほしい。何のための有給なのか」とこぼす。

 関口医師はこう言う。「労働の資本は健康。その健康を再生産する時間を確保できなければ、やがて職を失うこともある」

 【ズーム】雇用の安定と健康 解雇への不安感は健康に悪影響をもたらし、心臓疾患の危険性の増大とも関係することが明らかになっている。世界保健機関(WHO)は「満足感の得られない仕事や不安定な仕事は失業状態と同様の影響がある」とし、仕事の質の重要性を説いている。

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