ランディ・ローズの死後、オジー・オズボーンを支えた敏腕ギタリストたち 1988年 10月22日 オジー・オズボーンのアルバム「ノー・レスト・フォー・ザ・ウィケッド」がリリースされた日

今も第一線で活躍するメタルシーンの帝王オジー・オズボーン

オジー・オズボーンが71回目の誕生日を迎えた。2度目のファイナルツアーを銘打ちながらもライヴ活動を続け、2020年1月には9年ぶりの新作リリースを予定するなど、メタルシーンの帝王として未だ第一線で活躍しているが、ふと過去を振り返れば不思議に思えてくる。

それは91年秋、オジーの “ラストコンサート” と銘打った来日公演の記憶が、未だに鮮明だからに違いない。僕が行った大阪城ホールでのライヴはジャパンツアーの最終公演、つまり “日本でのラストコンサート” を意味していた。次々と繰り出される名曲の数々とオジーの衰えぬ歌声を聴いているうちに、もう観ることができないのか、と自然に涙が溢れてきた。ライヴが終わり客電の点いたアリーナに呆然と立ち尽くす僕は、まだ疑うことを知らない純粋なロック青年だった…。

1991年の引退宣言を撤回して完全復活

それから4年後、あれほど大々的に引退宣言したオジーが復帰するというではないか!しかも新作リリースに加え、ライヴ活動まで展開していったのだ。まさにプロレスラーの大仁田厚もびっくりの引退撤回からの完全復活劇。メタル界隈では昨今もモトリークルー、スコーピオンズ、KISS等をはじめ、さまざまなアーティストが引退宣言をしているが、疑うことを僕はオジーから学んだ気がする(笑)。

事実、スコーピオンズはラストツアー中に引退を撤回。この原稿を書いている間にも、モトリークルーが活動休止に関する契約書を爆破する映像をアップし、茶番的な展開を見せている。12月にファイナルツアーで来日するKISSの行く末はいかに?もっとも、彼らも98年にフェアウェルツアーを敢行済みだが…。

何はともあれ、オジーが世紀をまたいで活躍してくれたことは、勿論よかったと思っている。オジーというメタルシーンにとどまらない大きな存在が、90年代以降にグランジの波にのみ込まれたシーンを支え、新世代への橋渡しに貢献したことは疑いないからだ。

短期間のヘルプながらツアーをこなしたバーニー・トーメ

そんなオジーが、ランディ・ローズの突然の悲劇に見舞われながらも80年代を駆け抜けたのは、彼自身が見初めた敏腕ギタリスト達のサポートと活躍によるところが大きい。

ランディ直後に短期間ヘルプしたのが、今年3月に惜しまれながら他界したバーニー・トーメだ。残りのツアーをこなすべく、バンド全体が悲劇による失意の最中という最悪のタイミングに急遽参加したバーニーは、当然だが短期間で楽曲を覚える過酷な状況にも追いこまれた。オジーバンドの歴史上であまり語られないが、重責を担ってツアーを滞りなくこなしたバーニーの功績は評価されるべきだろう。

オジーとのキャリア以降名声が広がったブラッド・ギルズ

続くブラッド・ギルズは、ナイト・レンジャーの本格始動前、ツアーに帯同してライヴアルバムも残しており、よく知られた存在だ。僕がレコード会社でナイト・レンジャーを担当した時に、来日したブラッドと一緒に飲む機会があった。酔っ払った彼がオジーのバンドに誘われた時の一部始終を、まるで昨日のことのように興奮気味に語ってくれたのがとても印象的だった。ブラッドほどの名ギタリストでも、オジーのバンドに誘われた過去が、いかに名誉なことなのかを改めて理解した瞬間だった。

そういえば、2010年にオジーのギタリストに抜てきされたガス・Gの別バンドを長年担当していたが、彼がオジーへの加入を知った時、驚きとともに自分のことのように、名誉として嬉しかったものだ。実際、彼の名声はオジーとのキャリア以降、シーンにたちまち広がっていった。

ランディの後任として正式加入したジェイク・E・リー

時系列を戻すと、ランディの後任で正式加入したのが、ジェイク・E・リーだった。アルバム『月に吠える(Bark at the Moon)』のタイトル曲の PV に登場したジェイクは、顔すらもはっきり見えずミステリアスだったが、ストラトキャスターを持った雰囲気もランディとは全く異なることで最初は戸惑った。しかし、今やオジーの代表曲のひとつとなった前述曲での名演を始め、彼の卓越したギタープレイが評価されるのに時間はかからなかったし、母親が日本人のハーフということもあり、とりわけ日本のファンは親しみを覚えた。

ジェイクはオジーと2枚のアルバムを残したが、オジーらしからぬ LAメタル風の音楽性を盛りこんだ86年の『罪と罰(The Ultimate Sin)』の頃、オジーはヘアメタルバンドのごとく、髪を盛って煌びやかな衣裳に身を包んでいた。“闇の帝王” までもがこうしたビジュアルや音楽性を打ち出したことは、当時メインストリームの存在だったメタルの方向性の影響力の強さを感じてしまう。

オジーとの相性抜群!ザック・ワイルド

3年ほどでジェイクとの蜜月は終わり、その後迎えられたのがザック・ワイルドだ。ブロンドの長髪にレスポールと、いやがおうにもランディを想起させた風貌のザックだったが、プレイスタイルは全く異なり、その名の如くワイルドそのもの。骨太でヘヴィなエッジを効かせたプレイはオジーとの相性抜群で、88年の『ノー・レスト・フォー・ザ・ウィケッド』は、ブラック・サバスのヘヴィさとオジーのソロにおけるキャッチーさが絶妙にブレンドされた好盤となった。

僕が忘れられないザックの記憶は、89年に大阪厚生年金会館で観たライヴだ。絶好調のオジーのヴォーカルとバンド一丸となったヘヴィな演奏があまりに素晴らしく、僕はこの時もオジーのライヴ会場で自然と涙を流していた。ザックの弾きまくるギターの凄みは圧倒的で、途中披露されたギターソロは15分以上に及んだのではないか。それはまるでランディの幻影をポジティブな意味で掻き消すように爆音で奏でられ、その指先から放たれた強烈なピッキングハーモニクスの残響が脳裏に焼き付いている。

ザックを見いだしたことで、オジーは90年代以降によりヘヴィでラウドな方向に傾いていくシーンに繋がる足がかりを得ることになった。前述したファイナルツアーで一度は袂をわかしたものの、近年再度合流して今もオジーと活動を共にするザックこそが、ランディ以降のオジーにとって、結果的に最高の片腕となった。今にして思えば、あの日のザックが奏でた破壊的な凄まじいギタープレイに、そのヒントが隠されていた気がするのだ。

カタリベ: 中塚一晶

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