「日本では助かるものが助からない場合や、残らない後遺症が出る場合がある」。6月の第61次南極観測隊の合宿中に、こんな説明を受けた。観測隊同行中に病気になったらどうなるのだろう? 南極には観測隊員の医師2人が行くが、もちろん、国内と同水準の医療が受けられるわけではない。「医療の現状と限界、危険について説明を受け、その内容を理解し、家族に同意を得た上で観測隊への参加を承諾致します」。観測隊員も同行者も、この仰々しい承諾書を提出せねばならない。
▽最高の医療水準だけど
合宿では、第58次隊の医療隊員だった服部素子(はっとり・もとこ)さんがまとめた資料や「南極における医療の現状と限界」というタイトルの文書を受け取った。そこにはこうあった。
昭和基地では全身麻酔での手術が可能で、エックス線、胃カメラもできる。医薬品も計画的に持ち込んでいる。南極にある他国の基地と比べ「昭和基地以上の医療水準を持つ基地はない」―。
ただ、国内の外科手術は通常、外科医2人、麻酔科医1人、看護師2人で行われる。が、南極には看護師も検査技師もいない。日本にいれば、治療を受けた病院で対応できない症状がある場合、より高度な医療が受けられる病院への搬送が可能だ。南極でも、夏期は患者を飛行機で文明圏へ搬送できる可能性があるが「冬期の救出活動は不可能」だそうだ。
▽帰国命令がでることも
起こってしまって困ることとして例示されたのは、重大なけが、大動脈解離など多量に出血する疾患、心筋梗塞など。第61次隊の医師、小嶋秀治(こじま・ひではる)さん(46)によると、大動脈解離の場合、まずCTなど診断に必要な機器がない。その上「国内であっても危険な病気。医師の専門性の問題もあるし、大きな手術には、越冬期間中に基地にいる医師2人では対応できない」という。小嶋さんの専門は家庭医療と整形外科だ。
なるほどそうだろうなあ、と思う。そして意外なことに「妊娠、出産」も起こっては困る、とされていた。
文書には「昭和基地では妊娠・出産にともなって生じる疾病(流産、胎盤剥離、帝王切開など)に対応することができない」とはっきり書いてある。そのため、女性の越冬隊員は南極観測船「しらせ」が帰国するタイミングで妊娠反応試験を受けることになっており、結果によっては越冬を中止し帰国が命令されるという。小嶋さんは「正常分娩ならなんとかなるかもしれないが、そうでないと厳しい」と解説する。
南極観測隊員の奮闘を描いた漫画『極リーマン』では、基地で女性隊員が出産するストーリーがある。が、あまり現実的ではないようだ。
▽事前の健康診断
そうした事情もあり、観測隊員や同行者は、参加が決まるとまずは詳しい健康診断を受けてクリアすることが必要だ。記者の場合も、同行取材が決まって最初にしないといけないのがこれだった。
ところがその健康診断がいささか難物だった。細かく項目が指定されており、尿や血液検査にしても会社で受けている健康診断では見たことのないような項目が並んでいる。勤務先の担当部署に相談の上、近くの医療機関で受診した。
ところが返ってきた結果を見ると、どういう行き違いがあったのか、足りない項目だらけ。採血をやり直すために再び医療機関まで足を運び、ようやく全ての項目を埋めた診断結果を提出した。既往症などを細かく聞かれる「健康調書」の記入も求められた。私には既往症があったので、それについて追加で説明する文書まで出した。通っていた歯科にも診断書を書いてもらった。
「貴殿の健康確認を実施し、南極地域観測隊への同行に差し支えないとの結果が確認できましたので、お知らせします」
ようやく通知をもらったのは、もろもろの診断結果や文書を提出してから約1カ月後。ほっと胸をなで下ろした。(共同通信=川村敦、気象予報士)