「野中氏『反戦・反差別』、加藤氏は『絶対9条堅持』」 自民党宏池会名誉会長、古賀誠さんインタビュー(下)

 こわもての党人派政治家である一方、憲法9条改正に真正面から反対している古賀誠さん。亡くなった野中広務さん、加藤紘一さんとは、平和主義という理念を共有し、行動を共にしてきました。戦争を知る世代として後輩たちに何を伝えたいのか。とっておきの秘話も交え、話していただきました。

 ―自民党幹事長、内閣官房長官を務め、影の総理ともいわれた野中広務さんとの出会いは。 

インタビューで戦争体験の継承が大切だと話す野中広務さん=2014年8月

 「そんなに意識して出会ったわけじゃないからね。そう言われると、本当に答えに困るんだけどね、人間なんてそんなもんじゃないの。『歴史の大河の流れに邂逅(かいこう)と別離がある』。俺の一番好きな言葉なのだけど、何も意識して近づいたり、一緒になったりと言うのではない。よく聞かれるんですよ。『野中先生と、どうやって親しくなったの』と。親しくなりたくてなったのか、とかね。意識して近づいたとか、ではない。別にそれとなく近づいて、めぐり合いがあった。そんなもんじゃないかと思うな」 

■「政治の貧困が戦争起こした」 

 ―2003年のイラクに自衛隊を派遣する特別措置法の衆院本会議採決を退席するなど、行動を共にしていましたね。 

 「私の記憶に残っているのがおふくろの苦労。それは、おふくろだけじゃなくて、おふくろと同じような戦争未亡人がいっぱいいたわけだ。その人たちの力を借りて俺は国政に出ることができた。おふくろのことを美化するのではなくて、だったらやっぱり、そういった人たちが、再び出てこないようにするっていうのは、平和主義を貫くしかないと」 

 「出発点は違っているよ。僕と野中先生は全然違う。野中先生は軍隊の経験がある。そして地方での議会生活がある。たまたま、野中先生は反戦、反差別という課題に政治の志を懸けてやった。僕は平和主義を貫いている。戦争というものはいかに不幸な人をつくるかということは間違いない。僕の平和主義と、野中さんの反戦というのが一致するよね。僕の考え方は、『政治の貧困』の方にどっちかと言うと偏っています。政治の貧困こそがあの戦争を巻き起こした。そして終戦の時期を間違えた、というふうに僕の場合はつながっていく。特にだから政治の貧困とは何だと言うことが、僕のテーマです」

古賀誠さんと野中広務さんは訪中した際、北京で一緒に記者会見した=2002年4月

 ―フィリピンのレイテ島に「行く」「行かない」のやりとりを読むと、野中さんとの付き合い方は、普通の政治家同士の付き合いではなく、互いの人格の本質、根っこの部分で触れ合っていると感じます。 

 「野中先生がまだ元気でいらっしゃれば、こういう平和主義、憲法9条についても、いっぱい発信されていたと思う。それを、僕が『野中先生の分まで』というと、極めて不遜だけどね。そんな野中先生のような力は僕にはない。しかしこうやって、本を出してみて、やっぱり、われわれがやるべきことをきちっとやっとくことが大事なことなのだとわかる。野中先生の域には到底達しないけど、せめてそういう気持ちは、本という形で残しておくことができたと、ちょっと思わないでもないです。反響が大きくてびっくりするようなとこもありますね」

大平正芳元首相=1980年5月

 ―「独善」「私物化」という政権批判があふれる昨今ですね。 

 「大平正芳先生が自民党幹事長の時に『自由民主党は、わが国が持っている一つの、大切な公的財産だと思う。独善を避け、広く党内外の意見を吸収できる国民政党であるべきだ』といった。これはきちっと後輩に伝えたい。僕は、こうした党の在り方を、非常に大事にしなきゃいけないと思うのです。宏池会が、そういう考えから離れていくなら、それは私にとっては大変残念なことだし、よく会長とも話し合わなきゃいけない、大切な心構えだと思います」 

■加藤氏とインパール作戦の「白骨街道」へ 

 ―宏池会といえば、16年9月に亡くなった加藤紘一さんも平和主義者でしたね。01年の「加藤の乱」以降、距離ができたけど、最晩年には交流があったと聞いています。 

インタビューに答える自民党元幹事長の加藤紘一さん=2014年3月

 「加藤さんは『9条を絶対に堅持すべきだ』と考えていた。外交官の経験もある加藤さんは、9条があってこそ日本の平和はあるという意味では、僕より強い信念を持っていたかもしれない。皮膚感覚を持っていたと思う。戦争を知っている大平正芳さんや田中六助さんといった指導者の中で、加藤さんも政治家として育ってきた。加藤さんはそういう意味で尊敬するべき先輩だった」 

 「14年6月、私と加藤さんは、ミャンマーに行きました。無謀なインパール作戦が行われ『白骨街道』と呼ばれた地域にね。当時の日本軍は全く後方支援も何も考えないで突っ込んでいった。インパール作戦は、ほとんど敵の弾で死んだ人はいないよ。飢餓と病気だ。後方支援なんてないのだから。そういう中にさらされた。14年に入ってから、加藤さんは『あの白骨街道を一緒に歩こう』と、言い出した。すでに国会議員は引退して、かなり病気も進んでいてね。僕は最初断った。加藤さんは『いや、あんたと一緒に行きたいのだ』と耳を貸さない。本当にこの砂防会館の事務所に3回ぐらいおいでになった。足引きずって」

 ―加藤さんの覚悟は、固かったわけですね。 

 「どうしても行きたいと言い続けるので『死を覚悟したら、良いですよ』と言ってみた。『おれは覚悟している。行こう』と加藤さんは答えた。『インパール作戦の、あの白骨街道をなんで僕と一緒に歩きたいのか』と重ねて聞くと、『いや、古賀の言う、政治の貧困というのは分かるよな。インパール作戦はその象徴だよな』と。やっぱりその言葉に私は象徴されていると思ったね。これが宏池会だと思うね」

インド・インパール北東のサンジャック村からミャンマーに通じる道。日本兵の遺体で埋まり「白骨街道」と呼ばれた=2011年5月31日(共同)

 ―大変な旅でしたね。

 「もちろんの加藤さんの秘書は随行したよ。しかしもう加藤さんの病気は深刻だった。結局ミャンマーの3日目か、体調が悪くなっちゃって。そのまま言葉が出ない。日本に戻ってくるのも大変だった。まずタイへ運んで、タイの病院でちょっと体調を戻すことができて、なんとか日本にお帰りいただいた、というような芸当をやったよ」

 「今、僕は加藤さんと最後の旅になったミャンマー旅行は、本当に良かったと思っている。有隣会(自民党谷垣グループ)の皆さんたちもね、加藤さんの覚悟と責任感を忘れないでほしいものです」

東京・永田町の個人事務所で共同通信のインタビューを受ける古賀誠さん=10月29日

(了)

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