「生きていけない」中国残留日本人2世の苦難 生活苦、高齢化に直面 

「このままでは日本社会で生きていけない」と訴える宮崎会長(右)と妻智子さん=長崎市内

 第2次世界大戦中、開拓民などとして中国東北部(旧満州)に渡り、戦後、中国に取り残された「中国残留日本人」。日中国交正常化(1972年)以降、多くの1世が帰国を果たしたが、親と一緒に日本に定住した2世たちが、生活苦の中で高齢化の問題に直面している。1世には国の支援があるが、2世はほとんど対象外。言葉の壁で安定した仕事に就けず、「6割は生活保護受給世帯」とのデータもある。現状と課題を取材した。

 今年3月、長崎市で「県中国帰国者二世の会」が発足した。九州では福岡、熊本、佐賀に次いで4番目。会員数は約150人。50、60代の2世が中心。1世を対象に給付金などを支給する「中国残留邦人支援法」を2世にも適用するよう政府に求める署名活動に取り組んでいる。活動開始から約1500筆を集めた。
 2世たちを突き動かしているのは「このままでは生きていけない」という危機感だ。会長の宮崎一也さん(66)=長崎市=は「30歳を過ぎて日本に定住した2世たちも年を取った。仕事もなく、お金もない。生活苦しい」と不自由な日本語で訴える。
 亡き母菊子さんは残留孤児。旧満州で終戦を迎え、混乱の中で母、姉、妹の3人が死亡。中国人の養父母に引き取られ、中国人男性と結婚し宮崎さんら5人の子をもうけた。94年、日本に帰国。98年、中国で警察官をしていた宮崎さんも妻と子ども2人を連れて日本に移り住んだ。45歳だった。
 「祖国」での暮らしは楽ではなかった。日本語が話せないため正社員で雇用してくれる会社はなく、造船所の塗装や清掃などのアルバイトを転々。中国出身の妻智子さん(57)も清掃の仕事をして家計を助けたが、夫婦ともに病で入通院を繰り返すようになり、今は生活保護を受けている。
 母菊子さんは永住帰国から7年後、65歳で病死。墓は中国にある。日本で墓を建てる費用が工面できなかったからだ。宮崎さんは「お母さんのお墓、日本に作れなかった。申し訳ない。お金がないから中国に墓参りにも行けない」と嘆く。
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 国策で満州に渡り、戦後長きにわたって日中関係の「荒波」に翻弄(ほんろう)されてきた残留日本人。終戦直後の数年間に旧満州から100万人以上の日本人が引き揚げたが、49年10月、中国共産党の中華人民共和国成立に伴い引き揚げ事業は中断。日本政府は59年3月、当時まだ中国に多くの日本人が残留していたにもかかわらず、未帰還者の戸籍を抹消した。

今年3月に開かれた「県中国帰国者二世の会」の設立集会=長崎市中川2丁目、長崎高教組会館

 「早期の帰国措置や帰国後の支援を怠った」として、全国各地の帰国者計約2200人が、日本政府に損害賠償を求めた集団訴訟(2002~06年)を契機に、政府は08年、年金の満額支給や「生活支援給付金」などの経済的支援を開始。14年からは1世の配偶者も対象に加えられた。
 ほとんどの2世はこうした法的支援の枠外に置かれている。厚生労働省はその理由を「(1世のように)残留せざるを得なかった特段の事情が認められない」と説明する。ただ、1980年代以降、年齢を重ねてから日本に「移住」した2世も、言語や生活習慣の違いなどに苦しんでいる現状は1世と同じ。九州弁護士会連合会が2012年度、2世を対象に実施した調査では日本語が「よくできる」「できる」と回答したのは計47%にとどまった。
 「九州地区中国帰国者二世連絡会」によると、同会が17年、九州在住の2世約200人に聞き取りをしたところ約60%が生活保護を受給していた。長崎の「二世の会」を支援する日中友好協会県連合会の萩谷瑞夫事務局長は「中国に取り残され、帰国できない状況をつくった責任は日本政府にある。1世も2世も国策の犠牲者なのだから区別せずに支援すべきだ」と指摘する。


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