【野球と記録】ベーブ・ルースの本塁打量産でファンに浸透 野球はなぜ「記録のスポーツ」に?

ベーブ・ルースの活躍は野球における記録への関心を高めた【写真:Getty Images】

1920年代に本塁打記録を更新したベーブ・ルースが記録の価値を高めていった

 MLBで「記録」が野球ファンに注目されるようになったきっかけは、大打者ベーブ・ルースの登場だった。ボルチモアに生まれ、ボストン・レッドソックスで左腕エースとして活躍したルースは、投手だった時代から強打で知られていた。

 ルースが登場するまで、シーズン本塁打記録はネッド・ウィリアムソン(シカゴ・カブス)が1884年に記録した27本。1901年にMLBがア・ナ両リーグに分立した以降ではギャビー・クラバス(フィラデルフィア・フィリーズ)の24本だった。

 1918年、投手としてマウンドに上がるかたわら打者として11本塁打を放ってチリ・ウォーカー(フィラデルフィア・アスレチックス)とともに本塁打王となったルースは、翌1919年には29本塁打とMLB記録を更新した。9月24日のヤンキース戦で新記録になる28本塁打を記録すると新聞社は大きく取り上げた。

 翌1920年にヤンキースに移籍して外野手にコンバートされたルースは4月14日の開幕から半月の間ホームランが出なかった。しかし、5月1日に初本塁打を放つと、ここからホームランを量産。7月にはルース自身が前年に記録した29本塁打を軽々と抜いた。

「ルースはどこまで記録を伸ばすのか?」は全米の話題となった。MLBは前年、「ブラックソックス事件」という大スキャンダルで大きくイメージをダウンさせていた。それだけにルースの大活躍は、明るい話題として注目された。

 50号ホームランは9月24日、ワシントン・セネタースのダブルヘッダーの初戦に出た。ルースは50号を放ったバットを、トルコで貧困に悩むアルメニア人を救済する近東諸国救援基金に寄付。この行為も称賛された。

 ルースは1921年には59本塁打、1927年には60本塁打を記録したが、米のメディアはこれらの記録も大々的に報じた。ルースの登場によって野球は「記録のスポーツ」としてアメリカ人に浸透した。

ウイリアムスの打率4割、ディマジオの連続安打など野球の歴史は記録に彩られていく

 1941年は「記録の年」になった。レッドソックスのテッド・ウィリアムスが、1925年のロジャース・ホーンズビー(セントルイス・カージナルス)以来の「シーズン打率4割」を記録。そしてウィリアムスの最大のライバルであるヤンキースのジョー・ディマジオが「56試合連続安打」のメジャー記録を樹立した。

 1919年以降MLBの記録の集計、管理を担ってきた「エリアス・スポーツビューロー」は、新聞社に2人の記録に関する詳細なデータを提供、ビジネスを拡げた。

 次に「MLBの記録」が全米の話題になったのは、1961年、ヤンキースのロジャー・マリスがベーブ・ルースの「シーズン60本塁打」に迫った時だ。マリスがホームランを量産すると、ルースの記録を神聖視するファンから抗議が殺到する事態になった。

 当時のコミッショナーのフォード・フリックはルースの時代には新聞記者としてその偉業を書き立てていた。当時MLBは162試合制だったが、ルースの時代は154試合制だったのでフリックコミッショナーは「ルースの記録をマリスが154試合以内で破らない限り参考記録扱いになる」と発表した。

 結局、マリスは154試合時点では58本にとどまり、新記録の61本塁打はチーム162試合目に記録された。

 MLBはマリスの記録を「参考記録」としてルースの60本と併記していた。マリスの記録はアスタリスクつきでレコードブックに記載されたが、1991年、正式なMLB記録として認められるようになった。

 以後もバリー・ボンズの本塁打記録、イチローのシーズン安打記録などが大きな話題となってきた。MLBの歴史は、まさに「野球記録の歴史」だと言っていいだろう。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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