先輩の思い…感じ取って

米沢出身・南雲中将の書、母校に展示

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米沢市の米沢興譲館高資料室に寄贈された同市出身の海軍中将・南雲忠一の書

 1941(昭和16)年12月8日にハワイ真珠湾攻撃を指揮した米沢出身の海軍中将(当時)南雲忠一が記した書が母校の米沢興譲館高に寄贈された。本紙が2017年8月に紹介した所有者の桑島孝子さん(68)=長井市栄町=が「あるべき場所で受け継いでほしい」と申し出、同校資料室で妻への手紙とともに展示されている。海への思いを表した柔らかな書体から、軍人南雲忠一とは違った穏やかさが伝わってくる。あの日から78年。書に込めた思いを改めてかみしめたい。

 「志 海の如し」。書にはこう、記されているという。円を描いたように記した「志」を中央に大きく配し、その左下に「海」、右上に「如」をしたためた独特の仕上がりとなっている。上杉博物館によると、左端にあるのは名前とみられ、流れるような書体だが漢字で「南雲」と読み取ることができるという。

 南雲の書の上には妻に宛てた手紙が展示されており、さらに右隣には日清、日露戦争に従軍した米沢市出身の海軍大将黒井悌次郎が記した「自助」の書もある。軍人らしく骨太で力強い印象を受ける黒井の筆と比べると、南雲の書が、いかに遊び心に富んでいるかがうかがえる。激動の時代を生きた人の言葉だからこそ、短い言葉で自らの心境を表したこの一文が胸に染み入る。

 桑島さんは戦後、無実の罪でBC級戦犯に問われ絞首刑となった長井出身の軍医大尉桑島恕一(じょいち)のおいの妻。桑島さんが嫁いだ時から、この書はあったという。桑島家に伝わった詳しい経緯は不明だが、恕一の妻が米沢市出身の海軍中将近藤英次郎の娘で、近藤と南雲は同郷の上、海軍兵学校で同期だった縁から「何人かの手を経て桑島家に来たのでは」とみられている。

 戦後から代々、桑島家で受け継いできたが、歴史的に価値ある資料でもあるため「多くの人の目に留まる場所で保管されるべきなのでは」と、昨年冬、同校に寄贈を申し出、今年5月に搬入した。

 桑島さんは「南雲が生きた時代は日本にとってまさに激動だったと思う。歴史は南雲に対してさまざまな評価をしている。中には厳しい意見もある。だが、この書から伝わってくる人間南雲忠一は温かい人柄だったことを感じさせる」と話す。

 一方、同校資料室長の原田知明教諭は「妻に宛てた手紙からも南雲中将が非常に家族思いな人だったことがうかがえる」とおもんぱかり「時代の巡り合わせで悲惨な戦場の最前線に立つことになっても責務を果たそうとした先輩がいることを生徒たちには書や手紙から感じ取ってほしい」と話している。

◆南雲忠一(なぐも・ちゅういち) 1887(明治20)年、米沢市生まれ。旧制米沢中(現米沢興譲館高)を卒業後、海軍兵学校に入校した。太平洋戦争の皮切りとなったハワイ真珠湾攻撃では空母6隻を主力とする第一航空艦隊の司令長官を務めた。終戦の前年、サイパン島で玉砕している。

中央に大きく「志」と記し、左下に「海」、右上に「如」の文字を配した。左側にある縦書きで流れるような文字は漢字で「南雲」と読み取れるという